クリスマス
カシャン、と御簾を上げる音がした。微かに入ってきた冷たい風が、頬を撫でる。
少女はぴくりと体を震わせた。
「久しぶりだね、藤姫」
几帳を器用にどけて、声の主は目の前に現れた。
思っていた通りの人物に、少女は一つ溜息をついた。
「つい先日もお会いいたしましたわ、友雅殿」
呆れ顔で、端正な顔立ちの公達を見やる。
秋の除目で左近衛府中将となった、橘友雅。
男の表情は、いつのなく朗らかだった。
「そうだったかな?
私にとってはとても辛く、長く感じられたのだよ」
「あらそうでしたの。
お年のせいかと思いましたわ」
にっこりと笑んで、藤姫は答える。
この男の歯の浮くような言葉には慣れてしまった。
鬼と戦い、京を守った懐かしい日々は、色々な意味で自分を成長させてくれた。
「手厳しいね。
今日は君に贈り物を渡そうと思ってね」
「贈り物、ですか?」
目の前の公達の言葉に、少女は首を傾げる。
何かをもらう理由が、藤姫には見つからなかった。
「神子殿が言っていたのを覚えているかい?
『くりすます』、というやつだよ」
腰を下ろしながら、友雅が言った。
衣擦れの音がそっと耳に届く。
「……思い出しましたわ!
神子様の世界にいらっしゃる神さまの、生誕を祝う日ですわね」
敬愛する彼の人の言葉を思い出すことが出来て、藤姫は思わず声を上げた。
明るく、誰にでも優しかった女性。
笑顔は太陽のように鮮やかで、声は鶯のように可愛らしく。
それでいて、どこか子どものように無邪気なところもあった。
「確か、家族や友人と贈り物をしあう慣わしもありましたわね」
少しづつ、思い出がよみがえってくる。
いつだったか、八葉と自分とあの方で談笑した時のこと。
その中で出た話の一つがそれだった。
楽しそうに微笑んで、大好きな行事だと語ってくれた。
あの方は、今頃どうしているのだろう?
少女は異なる世界に思いを馳せる。
「ああ、その通りだよ。
ちょうど今日がその日でね。
だから君に贈り物を持って来た」
公達が声を発する。
苦笑しているようにも見えたが、少女は気づかぬふりをした。
「それは楽しみですわ。
けれど……」
藤姫は、そこで言葉を切った。
贈り物をと言うけれど、友雅は何も持っていないように見えた。
袖の中にも、手の中にも。
それらしき物は見当たらない。
一体何をくれるというのか。
少女は微かに首を傾げる。
「ふふ、どんなものか気になるようだね。
おいで、星の姫」
艶やかな笑みを浮かべて、男は立ち上がった。
侍従の香が、ふわりと渡る。
「どちらまで行かれるのですか?」
不思議に思って、問いかける。
友雅がくすりと声をもらす。
「少々寒いかもしれないが、庭にご案内しよう」
声と共に、何かが降ってきた。
先ほどした侍従の香が、一層強くなる。
肩には、一枚の衣があった。
「友雅殿が凍えてしまいますわ」
「人の好意は素直に受け取るべきだよ。
私は平気だから」
「……お言葉に甘えさせていただきますわ」
これ以上は何を言っても仕方がない。
そんな気がして、藤姫は素直に従った。
「それでいい。
では参ろうか」
友雅は、満足そうに笑っていた。
***
真白な雲に覆われた空の下。
少女は不満そうな顔をしていた。
風が冷たいからでも、男が嫌いな訳でもなかった。
不機嫌な理由は簡単。
公達に抱えられ、この場にいるからだった。
「寒くはないかい?」
すぐ近くで聞こえる声に、藤姫はどきりとした。
落ち着かない居場所だと、心の中で呟く。
「え、ええ。
それより……自分の足で歩けますわ」
控えめな抵抗をしてみせる。
あまり効果はないかもしれない。
それでも、言わないよりはいい気がした。
「おや、こうされるのはお嫌いかな?」
橘中将はくつくつと喉を鳴らす。
楽しそうな声に、思わず声を荒げた。
「そういう問題ではありません!」
しんと静まり返った庭園に、叫び声が上がる。
思いの外大きく聞こえた声に、藤姫は口元に手を当てた。
「もう少しだけ我慢してもらえないかい?」
声が静かに告げる。
真っ直ぐに向けられた眼差しに気がついて、少女は黙って頷いた。
辺りに、静寂が訪れる。
聞こえてくるのは、微かに吹く風の声。
椿の葉が奏でる音が、わずかに届く。
あとは、何も聞こえてこなかった。
沈黙に耐え切れなくて、藤姫は空を仰いだ。
一面、白い雲に覆われている。
綺麗な青を探してみても、果てしなく白が続いている。
どこまでも、どこまでも。
はく息のように、白い空だった。
「えっ!?」
突然のことに、藤姫は驚きの悲鳴を上げた。
ふわり、と雲の一片が落ちてきたから。
欠片はゆっくりと降りてくる。
小さな弧を描きながら、ゆらりゆらりと。
透き通るような白いそれに、そっと手を伸ばす。
触れてみたい。
そう、思ったから。
「……」
手にしたはずの欠片は、掌の上でさっと消えた。
残ったのは、ひんやりとした感覚だけだった。
「気に入ってもらえたかな?」
囁かれて、少女は我に返った。
友雅は心からの笑みを浮かべている。
「雪が、贈り物でしたの?」
ぽつりと呟く。
それ以上、言葉が出てこない。
感激と感動が入り混じって、何を話していいのか分からない。
「そういうことになるね。
最初の一片を君にあげたかった」
落ち着いた声に、鼓動が跳ねる。
眼差しはいつになく真剣だった。
「最初の一片、ですか?」
早くなっていく鼓動を抑えながら、藤姫は尋ねた。
冷たい雪が、少しづつ舞い降りてくるのを見つめながら。
「その年の冬初めての雪を手に入れた者は、願いが叶うそうだよ。
これも、神子殿の受け売りだけどね」
典雅な微笑みに、心臓がとくんと鳴る。
早鐘を打つこの音を、聞かれてしまわないだろうか。
藤姫は密かに考えを巡らせた。
「さて、もうそろそろ戻ろう。
風邪を引いてしまう」
言うが早いか、友雅は歩き出した。
来た時よりも少し足早に。
「そうですわね。
帝をお守りする左近衛府中将殿が、風邪で倒れられては。
皆困りますものね」
友雅の言葉が、自分に向けたことだと知っていた。
藤姫はわざとそう告げた。
そうでもしないと、思い上がってしまいそうだった。
この人の優しさは、女性全てに捧げられる。
贈り物も、気遣いも。
自分だけではない。
特別な存在には、決してなれない。
だから。
「私は君を心配しているのだがね。
まあ、そうなったら私が看病に参ろうか」
男は一つ溜息をついた。
子どものような反応に、少女は声をもらす。
「では絶対に風邪を引かぬよう、気をつけなくてはなりませんわね」
「信用がないね、私は」
自嘲気味に笑った男を見て、藤姫は目を細める。
本気になれない、遊び上手な公達。
冷たいと自負しながらも、こうして自分を気遣ってくれる。
その優しさが嬉しかった。
「友雅殿」
名前を呟く。
大切なものに触れるように。
「何だい?」
「素敵な贈り物を、ありがとうございました」
喜びの気持ちを素直に音にする。
声はふわっと広がって、空にとける。
「そう言ってもらえて嬉しいよ、星の姫」
幼子のような笑顔に、藤姫の鼓動は一気に跳ね上がった。
クリスマスには、奇跡が起きる。
天に戻っていった神子の言葉を思い出しながら、少女は願った。
この冬初めての、雪の一片に――。