夢現

「あれ…? ゆきたかさん……?」

 今、目の前にいたはずの人物が姿を消す。
「ゆきたかさーん!!」
 今度は大きくはっきりと彼の名を呼ぶ。
 しかし、そこには自分だけしかいない。
 周りを包むは闇。
 眼前に漆黒の色が広がる。
 さっきまであった周りの景色すらなくなっている。

「ゆきたかさ――ん!」

 幾度となく声を上げる。
 しかし、声は空しくこだまするだけ。

「ゆき、たかさん……」

 もう、独りになるのが嫌で彼を呼ぶのか、彼が心配で名を呼ぶのかも分からない。

「どこ……?ここは、どこ……?」

 ふと足元を見やるが、自分の足すら見えなくなっている。


「嘘っ、さっきは見え……」
「……!?」


 声を発した筈なのに聞こえない。
 反響しない、真の闇。
「ゆ、ゆきたかさ――ん!!」
 己が身にさえ返らぬ声で、花梨は悲痛な叫び声をあげた。




「神子様!」

 聞き慣れた声にはっと目を見開く。
「……ゆめ……?」
 何となく重い体を起こし、周りを見渡す。
 そこにはいつもと変わらない部屋の様子が広がっていた。
 ただ、今にも泣き出しそうな紫の顔を除いては…。
「――神子様、
 よう、ございました……」
 それだけ言うと、安心したのか紫は目に溜めた透明な雫をぽろぽろと流し始めた。

「紫姫……」

 そんな彼女の髪をそっと撫でようとしてふと手を止めた。
 掌には、びっしりと汗が滲んでいた。
 花梨は思わず自分で自分を抱きしめ、身震いをした。
 恐い夢を見た……。
 どんな夢だったかは思い出せない。
 けれど、ひどく怖ろしい……。


 ――思い出したくもない夢――。


「申し訳ございません…。神子様を前にこのような…」
 まだ、少し涙の途切れぬ顔で、紫は花梨から一歩退がる。
「あ、ううん気にしないで。
 私、うなされてたのかな……?」
 紫の先程の取り乱しようと、背筋に走る悪寒から、それは容易に想像できた。
「ええ……。
 それはもう、お苦しそうに……」
 紫がふと瞳を曇らせたので、慌てて声をかける。
 彼女の辛い顔は見たくなかった。
「もう大丈夫!
 さ、今日も頑張らなくちゃ!」
 無理やり笑顔を作ってみせる。
 やらなければならないことは幾らでもある。
「神子様……」
 一瞬、紫は戸惑う素振りを見せる。
 けれど、笑顔を見せると、彼女もまたいつものように微笑んだ。
「では、少々お待ちくださいませ」
 小さな少女は一礼をし、その場を離れた。


 ***


 ややして、紫は誰かと一緒に戻ってきた。
 衣擦れの音が近づいて来る。
「神子様、今日は幸鷹殿がお見えです」
「あ、うん」
 何故かその名に胸が痛んだ。
 不安、それとも……。
 そんな花梨の思いを、彼の姿が解決した。

「神子殿、もしよろしければ本日のお供をさせて頂けませんでしょうか?」

 にこやかな笑顔で現れた彼の姿が、次第に霞んでいく。
 瞳から、ぽたぽたと雫が落ちる。

「あれ…?
 なんで、かな…涙、止まらない…」

 紫姫より早く、彼が自分の傍によって来た。
 幸鷹さんに泣き顔を見られたくない……。
 袖で目を擦ろうとする。
 しかし、それより先に幸鷹の袖が花梨の頬を拭った。
 着物に焚き染められた侍従が、上品に香る。

「ごめ…なさい…。
 幸鷹さんの顔見たら、なぜか安心して……」

 理由は分からない。
 けれど、彼の顔を見たらすごく「安心」したのだ。
 次々とあふれる涙。
 抑える術も見つからない。
 花梨はそっと、褐色にも似た彼の瞳を見つめる。
 幸鷹はそれに答えるように、包み込むような優しい笑顔で花梨を見つめ返す。

「理由は存じませんが……。
 私の顔などでお心が安らぐのでしたら、
 喜んでお傍におりますよ」

 幸鷹の控えめな微笑みが、花梨を安堵へと導く。
 花梨は幸鷹の肌には触れぬよう、そっと彼の袖をつかむ。
 離れたくない、離したくない。
 ただ、彼の傍にいたい……。
 そんな想いが、花梨の胸の中で大きくなっていった。
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