初めての歌
それは、こちらに来て初めての物忌みのことだった。「ねえ紫姫。
文って何を書けばいいのかな?」
筆を手に持ちながら、後ろの紫を振り返る。
「神子様、墨が着物に落ちてしまいますわ」
くすくすと笑いながら、紫が言う。
慌てて筆を置き、もう一度紫に訊く。
「何を書いたらいいのかな?」
星の姫がゆっくりとこちらに寄ってくる。
花みたいないい香りがする。
「そうですわね、歌を贈られるのが普通かと」
にこりと紫が笑う。
お人形さんみたいな可愛らしい笑顔だった。
「そっか……。
うーん、どうしよう」
花梨は卓に肘をつきながら考え込んだ。
明日は物忌みだから、八葉の誰かに一緒にいてもらわなきゃいけない。
そう言われたので、文を書こうとしているのだが、全く進まない。
「歌か……」
ふうと、盛大にためいきをつく。
今まで国語の授業で何度か作ったことはあったが、上手いとはお世辞にもいえない成績だった。
季語とか枕詞とか良く分からない。
しかもここは異世界とはいえ平安時代っぽい。
古語なんてさっぱり分からない。
心底悩んでしまう。
「神子様、もしよろしければ私が代わりに……」
紫が心配そうに声をかけてくれた。
「そうしよっかな?」
その申し出に甘えようとした時だった。
「神子を甘やかすでないぞ、紫」
どこからか深苑の声が聞こえた。
広い廊下のあたりに人影があった。
「兄様! けれど……」
「そのくらい自分でやらせろ。
それでなくとも力弱き神子なのだから。
貴族の姫であるそなたが、わざわざやることではなかろう。
そなたはそろそろ床に入れ」
ぐさっと何かが刺さる感覚がする。
深苑の指摘はもっともだった。
だから、余計に辛かった。
「兄様!
そのようなこと!」
紫が叫ぶ。
彼女の瞳はすでに潤みはじめている。
「深苑君の言うとおりだよ。
私もすぐに書いて寝るから」
にこっと笑ってみせる。
紫をこれ以上付き合わせるのはかわいそうだ。
何より、私たちの間で板ばさみになっているのが心苦しかった。
「神子様がそうおっしゃるなら……」
すっと側を離れる音がする。
衣擦れの音というやつだ。
「うん。
じゃあ、おやすみなさい!」
できる限りの笑顔で紫を見送る。
少し悲しそうに、彼女は深苑と一緒に部屋から出て行った。
ふうっと大きなためいきがでる。
落ち込んでる場合じゃない、とにかく文を書いてしまわなければ。
花梨は大げさに腕まくりをして、よしっと声を上げる。
「うーん、和歌、和歌……。
あっ!」
急に大声をあげ、塗り箱に駆け寄る。
そして、自分と一緒に時空を超えた学生カバンを取り出す。
「やっぱり、良かった〜。
これなら何とかなりそう!」
カバンをぎゅっと握りしめ、花梨は微笑んだ。
程なくして文は完成し、藤原幸鷹の元に届けられた。
次の日、幸鷹はいつもと同じくらいの時間に来た。
「先日は文をありがとうございました……。
その、紙も花もとても趣味の良いもので。
……ありがとうございました」
いつもと違って、しどろもどろな話し方に違和感を覚える。
「どうか、しましたか?」
「いえ、その。
昨日の歌のことなのですが……」
ぎくっとする。
もしかして、教科書をそのまま写したのがばれたのか。
それとも、書き写しを間違えたか。
心臓がドキドキし始める。
「あれじゃ、だめでしたか?」
ちらりと彼を見る。
どうしよう、幸鷹さんに嫌われちゃうような歌だったのかな。
「そういう訳ではないのです!
とても素敵な歌でしたし……!」
彼のその言葉に、ほっと胸をなでおろす。
「良かった〜。
がんばって考えたかいがありました!」
花梨は無邪気に笑う。
教科書にくびっぴきになって探したかいがあったというものだ。
「そ、そうですか」
幸鷹は顔を真っ赤にしている。
「?
どうしたんですか、幸鷹さん。
顔が真っ赤ですよ」
小首を傾げる。
熱でもあるのだろうか?
「……私の解釈が間違っていなければ、その……。
あれは“恋文”に思えたのですが……」
目の前の男性がメガネを直す。
一瞬何のことだか分からなくてきょとんとしてしまう。
しばらく考えて、はっとした。
「え―――っ!?
そうだったんですか!?
全然知りませんでした!」
思わず大声をあげてしまう。
ここに深苑がいたら怒られていただろう。
「すみません、その……。
教科書に載っていた歌を書いただけなんです……」
「きょうかしょ……?
それは一体どういったものなのですか?」
興味津々な顔つきで幸鷹が訊いてくる。
「えっと、私のいたところではそれで勉強をするというか。
とにかくごめんなさい!」
思いきりぺこりと頭を下げる。
知らなかったとはいえ、恋の歌を贈っちゃうなんて恥ずかしいことをしてしまった。
「いえ、間違いならそれでいいんです。
気にしないでください」
幸鷹が優しく声をかけてくれる。
「はい、すみません……」
しょんぼりと彼を見つめる。
その瞳が思いのほか優しくて、少しドキッとしてしまった。
「誰にでも間違いというものはありますから」
本当にいい人だな、と実感してしまう。
その優しさが嬉しかった。
「私に何か聞きたいことはありますか?」
幸鷹はにこやかに微笑んだ。
この時、幸鷹が密かにためいきをついたことに、花梨は気がつかなかった。
間違いであったことを残念に思っていた彼に――。