触れたい
『時』を止めてしまいたい。そう、ふいに考えることがある。
無駄なこと。
愚かな感情。
知っているのに、思わずにはいられない。
それは、一体どうしてなのだろう?
「では、幸鷹殿。
神子様をよろしくお願いいたしますわ」
「ええ」
頭を下げる紫姫に、短く答える。
幸鷹は、彼女の背を見送ると足早に神子の元へと向かった。
今日は、白龍の神子の物忌みの日。
昨夜のこと。
淡萌黄色の紙に、柑子が添えられた文が届けられた。
微かに香るは侍従。
繊細な文字が羅列する。
そこには、『明日来て欲しい』と書かれていた。
廂を歩きながら、胸躍る自分がいることに気がついた。
初めてかもしれない、心のざわめき。
どこか懐かしく、心地良い。
それが何なのかを、幸鷹は知っていた。
そっと、冷たい風が吹く。
風は、お気に入りの香を運んできた。
彼女の部屋まであと少し。
香る侍従が、それを意味していた。
「神子殿、ただいま参りました」
笑んで幸鷹は声をかけた。
しかし、いつも聴こえてくるはずの声は聴こえない。
どうしたことかと、青年は部屋を見渡す。
「神子殿!?」
不安が過ぎる。
鬼の仕業か、一体何が……?
「ん……」
足元で、声がした。
反射的に、幸鷹は下を見た。
「神子……殿?」
かけていた眼鏡をはずす。
確かに、そこに少女はいた。
柱に寄りかかり、膝を抱えている。
聴こえてくるのは、健やかな寝息。
「良かっ……た」
思わず、安堵の溜息がもれる。
鬼でも、何でもなかった。
ただ、眠っているだけだった。
「全く、あなたという人は」
にこりと笑み、少女と視線を合わせる。
自分も腰を落とし、その場に座る。
ひんやりとした床。
外は雪が降るほど寒いというのに、冷たい床が心地良いと思うのはなぜだろう?
火照る体が冷やされていく。
そんな気がした。
じっと、目の前の少女を見つめる。
優しい色をした瞳は、今は隠されている。
愛しいと思う人の眠る姿。
繊細で、儚くて、愛らしい。
小さな神子は、今にも壊れてしまいそう。
すべらかそうな頬に、そっと手を伸ばす。
触れたいと、思った。
あとほんの少し。
そこで、幸鷹は止まった。
触れられない。
その事実を思い出したから。
今、彼女に触れてはいけない。
あの時のように、頭痛が自分を襲うだろう。
行き場のない手を、ぎゅっと握る。
仕方なく、幸鷹は手を元の位置に戻した。
情けない。
思いを寄せる人のために、壊すことを躊躇う自分の存在が。
触れたいのなら、触れればいい。
頭の痛さなど恐れずに。
すでにこの身は、少女なしでは生きていけないであろうに。
何を躊躇う必要がある?
簡単なこと。
今まで育ててくれた人たちを、捨ててしまえばいいのだ。
容易なことだというのに……。
もう一人の自分がささやく。
コワシテシマエ。
甘い言葉。
誘惑。
幸鷹は、もう一度手を差し出した。
「ん……。
あ、れ?」
突然、少女の瞳が開かれた。
驚いて、青年は身を引いた。
「ゆき、たかさん?」
おぼろげに、神子は言葉を紡ぐ。
まだ、半分夢の中なのだろう。
「お、おはようございます。
神子殿」
慌てて、体裁をつくろう。
「おはようございます……。
って、あれ!?
私、寝ちゃってたんですか?」
飛び起きて、少女もまた慌てる。
その様子が愛らしくて、くすりと笑った。
「ええ。
気持ちよく寝てらっしゃいましたよ」
「ご、ごめんなさい!
せっかく幸鷹さんに来てもらったのに」
しゅんとうな垂れて、謝る姿がとても可愛いらしい。
「お気になさらず。
神子殿の寝顔を見た八葉は、私くらいでしょうから、役得でしたよ」
笑んで、優しく光る瞳を見つめた。
頬が赤くなっていく彼女の様子を、楽しみながら。
待っていてくださいね、神子殿。
もう少し、あと少しだけ時間をください。
あなたが悲しまないように。
全てを説得してみせます。
安倍家も、私の両親も。
あなたとずっと、一緒にいたいから。