満天星

 京から帰ってきて、結構な時間が過ぎたある日。
 二人にとっては、久しぶりのデートの日だった。




 甘い香りがした。
 どこからともなく訪れたそれに、花梨は足を止めた。
「花梨さん?」
 隣にいた彼も、歩みを止める。
 こちらを振り返って、少女を呼んだ。
「何か今、いい香りがしたんです」
「いい香り、ですか?」
「はい、すごく甘い香りなんです!」
 不思議そうに首を傾げる彼に、花梨は断言する。
 甘くて、優しい香りだった。
 何となく、正体が気になってしまう。
 青年は柔和な笑みを浮かべる。
 また、子どもっぽいことをしてしまったかな?
 呟きそうになった時、幸鷹が声をあげた。
「ああ、多分あれですよ」
 辺りを見回していた幸鷹が、花梨の背後を指差した。
 振り向くと、そこには深緑の生垣の中に咲く、白い小さな花たちがいた。
 すぐ近くまで駆け寄ってみると、甘い芳香が鼻をくすぐる。
 柔らかで、甘くて。
 どこか懐かしい香りだった。

「うわぁ、本当だ。
 ありがとうございます、幸鷹さん!」
「いいえ、大したことはありませんよ」
 変わらず微笑んでいる彼をまともに見てしまって、花梨の心臓が跳ねた。
 耳まで赤くなっていく気がする。
 何度見ても、ずっと見ていても慣れることができない。
 こんなに綺麗な人が、自分の恋人だなんて。
「あ、あのこれ、可愛いお花ですね!
 何か、星とか教会の鐘みたい」
 とにかく話題を変えたくて、花梨は言葉を並べる。
 上手く喋れている自信がない。
 ドキドキはどんどん速くなっていく。

「正解です」
「え?」
 思いもよらない言葉に、花梨は変な声を上げてしまう。
「この花は、漢字で『満天星』と書くんです」
「そうなんですか?」
 『まんてんぼし』。
 花梨は忘れないように心の中でくりかえす。
 本当に博識な人だなぁ、と花梨は思った。
 あちらの世界にいた時も、彼はたくさんのことを知っていた。
 それに、何度となく助けられた。
 懐かしい日々を思い出して、笑みがこぼれる。
「ええ。まるで貴女のようですね」
「わたし、ですか?」
「夜毎地上を照らす満天の星のように明るく、それでいて可愛らしい。
 よく似ています」
「あ、ありがとうございます」
 何だかたくさん褒められた気がする。
 ほんの少し、心が飽和状態になってしまう。
 甘い甘い言葉と、甘い甘い花の香り。
 酔ってしまいそうになる。

「花梨さん?」
 名前を呼ばれて、また心臓が跳ね上がった。
「えーっと、その。
 幸鷹さんてたまに、ちょっとだけですけど、キザな気がします」
 思ったことを、そのまま口にしてみる。
 ちらり、と見上げると彼は意外そうな顔をしていた。
「そうですか?」
「はい」
「では、これからは控えることにしましょう」
 微かに寂しそうに笑っていた気がして、花梨は叫んでしまった。
「あ、でも!」
「はい?」
「その……たまになら大丈夫です」
 本当に本当に小さな声で、ささやく。
 たった一言なのに、音にするのにかなりの勇気が必要だった。
「知っていますよ」
 満天星の香りのように優しく、甘い笑顔で幸鷹は笑っていた。




 たくさんの葉に包まれて咲く満天星だけが、二人を見守っていた。
 異界で出逢った二人の、初めての春のこと。
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