芳花

「暑い!」
 あまりの暑さに、望美は手のひらをぱたぱたさせた。
「仕方ないですよ先輩。
 ここには、エアコンも扇風機もないですからね」
 隣にいた譲が、くすりと笑った。
「うん、そうだよね。
 わがまま言ってても仕方ないよね」
 望美はふうと溜息をついた。

 京を出てから数日。
 一行は、熊野水軍を仲間に引き入れるため、熊野へと向かっていた。

「えあこん?
 何だい、それ?」
 いつの間にか背後に景時が立っていた。
「ん〜、冷たい空気を出してくれる便利なものなんです!」
「それはいいね〜。
 俺もぜひ、その恩恵にあやかりたいよ〜」
 くだけた調子で、景時が言う。
「兄上、それでも武士のはしくれなのですか?」
 すかさず、朔が兄を諌める。
 望美は、思わず噴出してしまった。


「もうじき小暑だから、暑いのは仕方ないね〜」
 景時が微笑みながら言う。
「小暑?」
 何のことか分からなくて、きょとんとする。
「二十四節気の一つだよ。
 それを過ぎると、暑さが日増しに強くなっていくのさ。
 あ〜、京邸の蓮もそろそろ咲く頃かな?」
 全然意味が分からない。
 二十四節気?
 はてなマークを浮かべていると、譲が助け舟を出してくれた。
「小暑は、夏至とか立夏の仲間みたいなものですよ。
 この頃になると、梅雨があけ、夏の太陽が照りつけて、セミが鳴き始めると言われてるんです。
 俺たちの世界だと……確か今年は七月七日くらいだったかな?」
「えっ!?」
 思わず、すっとんきょうな声を上げる。
「どうかしたんですか、先輩?」
「う、ううん。
 何でもないから気にしないで!」
 望美は、何となく言葉を濁した。





 熊野に着いた俺たちは、とりあえず宿を探すことにした。
 親切な人のお陰で、何とか泊まるところを見つけることができた。
 俺らは、しばらくそこにお世話になることになった。


「譲くん、ちょっといいかな?」
 夜も更けた頃、望美が姿を現した。
「どうしたんですか?」
 こんな夜遅くに、と言いながらも心は躍っていた。
 何だかんだ言って、彼女と一緒にいられる時間が増えることは嬉しい。
 少しでも思い出は増やしておきたい。
 ささやかなことでも、冥土の土産の足しにはなるだろう。

「ちょっと、ね。
 今、平気?」
 彼女が首を傾げる。
「あ、はい」
「じゃあ、ちょっとお散歩しない?」
「分かりました」


 譲は、望美に誘われるまま外に出た。


「空、綺麗だね」
 星のささやきみたいに綺麗な声が、風に運ばれる。

 この声を、自分だけのものに出来たらどんなに幸せだろう。
 誰の目にも届かない場所に、閉じ込めてしまいたい。

 そんな風に思ってしまう。
 空を仰ぐ彼女を、譲はじっと見つめる。
「……そうですね」
 長い髪が夜風にさらわれる。

 先輩の方が、綺麗だ。

 そう、言ってしまえたらどんなに楽だろう。
 この想いを伝えたら、この人はどんな顔をするんだろう?
 応えて、くれるのだろうか……?

 自分にはその資格はない。
 そんなこと分かってるのに、何度も考えてしまう。

 言ったら、あの世で後悔するだろう。
 俺は、もうすぐ彼女の目の前から消える存在。
 夢が真実なら、俺は確実に死ぬ。
 世界で一番大好きな、この人を守って――。

 譲は暗い思考を振り切るために、頭を横に振った。


「譲くん、ありがとう」
 急に振り返って、彼女は言った。
「え?」
 突然すぎる言葉に、戸惑いを隠せない。
「今日、お誕生日でしょう?」
 何でもないことのように、少女は告げた。
「そう……でしたっけ?」
 問いを問いで返してしまう。

 そういえば、そうかもしれない。
 こっちに来てからというもの、日にち感覚なんてなかった。
 だから、良く覚えていないけど……。

「うん!
 ほら、この前小暑の話がでたでしょ?
 あの後、景時さんに日にちを聞いたの。
 本当は七夕もやりたかったんだけど、こんな時だったし」
 だから、と望美は続けた。

「覚えててくれたんですね、俺の誕生日」
 自然と笑みがこぼれる。
 嬉しくて、胸の奥が温もりを持つ。
「当たり前だよ。
 毎年お祝いしてたじゃない」
 少女は腰に手を当てて、唇をとがらせた。
「先輩は忘れっぽいから」
 意地を張ってみたくなる。
 嬉しいと、素直に言ってしまえばいいのに。
「そんなことないよ!
 譲くんの誕生日は忘れないもん」
「俺が焼いたケーキが食べられるからですか?」
「ち、違うよ!
 もう、譲くんの意地悪」
 頬をふくらませ、じいと睨むその表情は年上とは思えないほど可愛かった。
「冗談ですよ、ありがとうございます」
 譲は礼を言う。
 抱きしめたい衝動を押さえながら。
「……何にもあげられなくて、ごめんね」
 彼女が微かに笑みを浮かべた。
 少し、寂しそうに。
「気にしてませんよ。
 こんな時なんだからしょうがないですよ」
 少しでも慰めになればいいと、譲は笑ってみせる。
 ころころと表情を変化させる彼女。

 その全てが愛おしい。

「うん、でもごめんね。
 本当は何かあげられたら良かったんだけど……」
 うつむいた時、少女の長い髪がサラサラと音をたてて零れ落ちる。
 そよと吹く風に運ばれて、甘い芳香が漂う。

 まるで、彼女自身が花みたいだ。

「……もう、充分もらいましたよ」
「えっ?」
 予想通りの反応が返ってくる。
「先輩の気持ち。
 ちゃんと受け取りましたから」
 にこりと微笑む。

 充分すぎるくらいの気持ちと、芳しい花の香り。
 それだけで、心は満たされた。

「譲くんて欲がないんだね」
 少し不満そうに少女は言葉を紡ぐ。
 優しい音が、胸に響く。
「じゃあ、来年は期待しててね!」
 満面の笑みが心に染みる。

 どんな時でも、彼女はとても真っ直ぐで眩しい。
 息が詰まりそうなくらい、美しい大輪の花。

「そうですね、期待してますよ」
 譲は、穏やかに笑った。
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