膝枕

「つまらぬな……」
 
 男は、急に呟いた。
 何の前触れも、前置きもなかった。
 
「何が、ですの?」
 
 甄姫は膝の上の夫に声をかける。
 春麗らかな一日。
 鳥が鳴き、花は歌う。
 ここは至上の地だと、誰もが言う。
 天下は一つとなり、乱世は終わった。
 膝枕をされ、寝転がっているこの青年の采配によって。
 
「この世の全てが、だ」
 
 低く、抑揚のない声が言葉を紡ぐ。
 この声が優しく聴こえてしまうのは、自分だけなのだろうか。
 
「覇王であるからこそのお言葉ですわね」
 
 目を細め、愛しい夫を見つめる。
 大地を治める皇帝の発言としては褒められたものではない。
 けれど、甄姫はそれを諌めることなどしなかった。
 彼なりの、甘えだと知っていたから。
 夫に甘えられて、嬉しくない妻などいない。
 
「当然のこと。
 ……父は、こんなものを欲したのか」
 
 色素の薄い瞳が、宙を仰ぐ。
 記憶の中の父親を思い出しているのだろう。
 青年の顔が、微かに和んだように見えた。
 膝の重みが心地よく思える。
 
「誰もが望み、欲するものですわ」
 
 優しく、彼の髪を撫でる。
 暖かな風が吹き、長い髪がさらりと零れ落ちる。
 
「……そなたも、か?」
 
 夫が、こちらを見上げる。
 やっと、絡まった。
 うつろな瞳に、じっと見つめられる。
 狂おしいまでに求めていたもの。
 それは、たった一つの視線。
 子犬がすがるような瞳に、思わず胸が高鳴る。
 まるで、幼子のような夫が、愛しくてたまらなかった。
 
「いいえ、私にはあなたがいますもの」
 
 相変わらず微笑んだまま、囁く。
 可愛らしいと言ったら、この人は気を悪くするだろう。
 自分が年下だということを気にしているから。
 
「……ふっ。
 私も、そなたがいれば充分だ」
 
 彼の頬が緩む。
 普段の冷徹な表情からは考えられない、優しい笑み。
 自分だけが知っている微笑み。 
 
「まぁ。
 らしくないお言葉ですわね」

 嬉しかったけれど、つい意地を張ってしまう。
 もう、性分なのだから仕方がない。
「本心を言ったまでのこと。
 私が常に欲しているもの、それは甄。
 そなただけだ――」
 青年の大きな手が頬に伸びてくる。
 触れた指からは、意外にも温もりが伝わってきた。
 心の温もりが体温となったのか……。
 ほんの一瞬だけ触れた手が、力なくぱたりと落ちた。
 それと同時に、彼の瞳も伏せられていた。
 
「……!?」
 
 突然のことに甄姫も驚く。
 よくよく耳を澄ますと、微かだが寝息が聞こえてきた。
 どうやら、眠ってしまったようだ。
 安堵のせいか、息が漏れる。
「……眠いのなら、素直に寝てしまえば良かったのに」
 くすくすと声に出して笑う。
 甄姫は茶のかかった髪をまた撫でる。
 膝の上の夫は、夢の佳人。
 その寝顔は、あまりにも微笑ましかった。 


 この世は、一人の王のもとに統一された。
 常は、彼を欲した。
 覇王の器をもつ男を。 

 けれど一人の女だけは違った。

 彼の、視線と笑みを欲した――。
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