女の好み
どこからか、笛の音が聴こえる。それは風に乗り、子桓の耳まで届く。
奏者など訊かずとも分かる。
愛する妻の奏でる笛の音。
それは至上のもので、誰も真似出来ない唯一の調べ。
玉璽を押す手が止まる。
子桓は瞳を閉じ、陶酔した。
「手が止まっていますよ」
横にいた仲達の声で、現実に引き戻される。
瞳をゆっくりと開ける。
「少しくらいいいだろう」
不機嫌に声を発する。
「……そういう訳には参りません。
あなた様は皇帝というお立場なのですから」
「相変わらず融通が利かぬな」
仕方なく、竹簡に目を落とす。
少しむっとしながら、肘を卓につく。
「お褒めにあずかり恐縮でございます」
声と共に、羽扇が視界の先で揺れる。
風が少し生じた。
全く、賢い男はこれだから……。
皇帝の口元に笑みがはかれる。
その状況を楽しんでいるような微笑だった。
「常々思っていたのですが……」
ややして、仲達が口を開く。
普段あまり自分から物事を尋ねない人物なだけに、少し驚いた。
「何だ、仲達」
「……いえ、大したことではないので」
言いかけて仲達は口を閉じた。
中途半端が一番気になるので、曹丕は尋ねた。
いや、もしかしたらこれも彼の策のうちなのかもしれない。
そんなことを思いながら、口元に笑みを湛える。
「何だ、言ってみろ」
「はあ。
いえその、殿はなぜあの女を側に置くのかと思いまして」
仲達にしては珍しく、その口から女の話が出てきた。
曹丕は、驚きを隠さなかった。
「なぜ、そう思う?」
逆に、子桓は問いかけた。
「訊いたのは私の方ですが?」
「言わねば答えぬ。
と言ったら?」
行儀悪く肘をつき、仲達を仰ぐ。
一つ息をついて彼は答えた。
「いえ、あのように身勝手な女人。
いくら美しいと噂の佳人とはいえ……。
私には分かりかねます」
仲達は羽扇で口元を扇いだ。
ふっと笑みを漏らし、声を紡いだ。
「自分の思い通りにならぬところが良い」
仲達に、はっきりと告げる。
自分の思い通りに動く女など興味はない。
飾り物では意味がないのだ。
覇王の隣にふさわしいのは、大人しい女ではなく甄姫のような女人。
ずっと、そう思っていた。
まさにあれが運命の女なのだ。
「女性は従順なのが一番です」
自分の教育係は、視線を合わせずに言う。
羽扇が風を作りだした。
これまた意外な意見に、子桓は驚いた。
「ふっ……。
あれが、な」
彼の言う“従順な女性”を思い浮かべ、思わず笑みが漏れる。
「何か?」
「いや、何でもない」
曹丕は胸のうちで密かに微笑んだ。