信じる
「信じるとは、愚かな行為だな」船べりに手をつく。
断末魔の声が響き渡る戦場で、曹丕は呟いた。
荒れ狂う炎の前で、それは小さく、無力であった。
それを知っていながらの呟きだった。
「我が君!」
傾国の美女と謳われる女の麗しい声がした。
敵軍の火計が成功したのを見て、ここまで走ってきたのだろう。
珍しく息を切らしていた。
「甄か」
言葉少なに青年は名を呼んだ。
ちらと顔だけをそちらに向ける。
青い衣装に赤い唇。
相反する難しい色彩を纏うだけあって、その容貌は炎に負けず鮮やかだった。
「……見事なものだな。
そうは思わぬか、甄」
燃え盛る炎に照らされていても、なお曖昧な色の瞳は周囲を見回す。
世界の終焉に似た一面の炎。
業火は全てを破壊へと導いていく。
死は身近にあった。
木の燃える匂いに混じり、人の焼ける匂いがする。
「我が君……?」
不思議そうに妻が呟いた。
「ふっ……。
この大船団、無残に呑まれていく。
廰統の仕官、黄蓋の投降。
どちらの虚偽も見破れなかったとは……。
父も、天命尽きたか」
己の父が信じた結果を静かに見つめる。
朱、紅、緋。
焔は様々に姿を変える。
その美しさ、憎々しい程に。
「不遜なことを仰いますのね」
振り返れば、佳人は笑っていた。
渦巻く炎よりも艶麗な笑み。
蕩けるようなとは、このようなものを言うのかもしれない。
ここが戦場だということが少し悔やまれた。
「そなたにはそう聞こえるか。
ならば、それが真実なのだろうな」
自嘲気味に未来の覇王は言った。
妻が本心から、そう思っていないことなど分かっている。
だから、お互い笑っていられる。
「お退きに、なりませんの?」
打って変わって真摯な眼差し。
笑みがさっと引いた。
これを、言いに来たのだろう。
「すぐに行く。
そなたは先に行け」
飴色の瞳をじっと見つめる。
言い聞かせるように。
自分はこんなところでは死なない。
否、こんなところでは死ねない。
「……はい」
真意を読み取ったのか、甄姫は一つ返事をした。
「しばし御前を離れること、お許しください」
頭を垂れ、甄姫は目の前を去った。
まるで風が通り過ぎるように。
「……行ったか」
曹丕はまた江を見た。
敵なのか味方なのか、分からない悲鳴。
焔と血で、全てが赤く染まっていく。
赤き壁。
それは、魏軍が乗り越えられなかったもの。
炎で出来た熱き壁。
「父よ、良いことを教えてくれた」
ふと曹丕は言った。
過信は命取りになる。
この戦は、自分の中で絶対の教訓となる。
そう、確信した時だった。
「曹丕様!!」
呼ばれて振り返れば、そこには護衛武将がいた。
「分かっている」
早く逃げろと言いに来たのだろう。
一つ息を吐いて、曹丕はその場を後にした。
焼け焦げていく、美しき戦場を。
信じることは愚か。
いつか、必ず裏切られる。
都合の良すぎることは儚い夢。
そう思っていれば、傷つかずにすむ。
ただ、一つだけ信じてみたいと思う者がいた。
それになら、裏切られてもいい。
裏切られ、怒り狂うのもまた一興。
誰よりも麗しく、誰よりも賢い。
自分の妻にだけは――。
曹丕は炎に背を向けながらそう、思った。