万感の想い

 夜の帳が降りた頃。
 生命は、息を潜めて朝を待つ。
 まだかまだかと、歓喜の瞬間を待ちわびる。
 全天に輝くは星。
 空には月も雲もない。
 心細い光を精一杯煌かせながら、星すらも朝を待っていた。

 魏国の皇帝は閨の中。
 寵姫を抱きながら、甘い夢の中にいた。

 魏帝曹丕は長く艶やかな髪を、一房手に取る。
 愛してやまない女の欠片。
 それに、そっと唇を押し当てた。

「いつ何時も、そなたを想っている」
 ふと、呟く。
 感じたままを、風に乗せてみる。
「我が君?」
 手の中にある温もりが、こちらを見つめる。
 煌きを宿した瞳は、見開かれていた。
「ふっ、そう言ったらそなたは喜ぶか?」
 驚いた表情の女を見て、男は言った。
「まあ、戯れでしたの?」
 佳人は目を細める。
 極上の華が、ほころぶ瞬間。
 それを独り占めできたことに、男は満足した。

「嘘ではない。
 真実だ」

 語る言葉は、誠のみ。
 虚言を並べるなど、意味無きこと。
 飴色の瞳をじっと見つめる。
「もちろん、嬉しいですわ」
 答えが返ってくる。
 曹丕は、腕に力を込めた。
「では、これから毎夜囁くとするか。
 こうしてそなたを抱きながら」
 腰のある皇かな髪から、芳しい香りがする。
 極上の布が擦れ、音を立てる。
 それすらも心地良いと思うのは、隣の女人のせいだろう。
「一日も欠かさず、ですわよ?」
 愛しい存在が確かめるように問う。
 約束は確実なものが好まれる。

 案外、これも人なのだ。

 どれほどに美しい姿でも、その身は天の者にあらず。
 人である自分が手に出来る、地に咲く華。
 自分と同じ、浅ましく欲深な存在。
 その事実を男は、好ましく思った。 

 大地の王は、口の端を上げた。
「無論」
 闇に音が溶けていく。
 誓いを天帝が聞き届けた。
 その証のように感じられた。
 
 くすっ。

 微かな声に、曹丕は声を発した。
「どうした?」
「いえ、何でもありませんわ」
 唯一の存在が微笑む。
 典雅な笑みは、答えることを拒んでいた。
 曹丕は、訊くことを諦めた。
「甄」
 代わりに、男は玉の肌を持つ女人を呼んだ。
 愛の言葉を囁くために。
「はい?」
 笑みを湛えたままの妻を見て、曹丕は軽く瞳を閉じた。
「いや、何でもない」
 言葉は形にならず、留まった。
 声にせずとも、伝わっている。
 だから、男は何も告げなかった。


 代わりに、魅惑的な唇に一つ口付けを落とした。


 いつもいつでも想うこと。
 それは唯一人の女のこと。
 何度も何度も、曹丕は甄姫を求めた。
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