新婚の別れ

 昼を過ぎた頃。
 薄暗い房の中で、青年は筆を手に卓に向かっていた。
 房の中には乱雑に竹簡が積み上げられ、床の上にもそれらが転がっていた。
 院子から零れる陽の光だけが、時を知らせる役割を担う。
 この房の主は、卓に肘をつき物思いにふける。

「誰だ?」
 人の気配に気がついて、青年は表に声をかける。
「仲達です。
 入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、入れ」
 立てられた衝立のむこうからは、聞き慣れた声。
 曹丕は入室を許可する。
「失礼いたします」
 姿を現した男は、慇懃に礼をとる。
「いい加減に片付けたらいかがですか?」
 痩身の男から発せられた言葉は、いつもと変わらぬものであった。
 青年は口元に笑みをはいて、筆を置く。 

「いや、この方が落ち着く」
「こんなに書き散らすのなら、奥方にでも贈ったらいかがですか?」
 溜息交じりの小言を聞きながら、青年は男を見る。
 黒羽扇がゆったりと動き、帽子についた布を揺らす。
「それは出来ない相談だな」
 書きかけの竹簡を巻き始める。
 カラン、という乾いた音が房に響く。
 この男がここに来たということは、何か用が出来たのだろう。
 天下は未だ一つにならず、世は不安定だ。
 それでも、曹丕は僅かな暇を見つけては詩を作る。
 文字を並べ形を作るのは、どこか戦に似ているような気がする。

「……なぜですか?」
 問われて、青年は笑みを深くする。
 予想通りの展開がおかしくて仕方がない。
「甄を言葉で表すなど愚鈍のすることだ。
 そうは思わないか、仲達」
「はあ。
 仲がよろしくて結構ですな」
 呆れ顔の臣下を見て、曹丕は満足した。
 仲が良いと言われるのは、存外嬉しいものだ。
 妻を娶り、初めて知った感情は心地の良いものであった。

「羨ましいか?」
 問えば、男は表情一つ変えずに言う。
「いえ、一向に」
 本当に思ったとおりのことを答える。
 曹丕はクッと声を上げる。
「まあ良い。
 ……そうだな、お前の諫言。
 たまには聴いてやるのも悪くない」
 怪訝そうな表情の臣下を見ながら、青年は思考を巡らせた。


 ***


「行ってくる」
 鎧に身を包む前の夫の言葉に、女は笑みを零して言う。
「いってらっしゃいませ、我が君」

 本来ならばついて行きたい。
 傍にいて、夫に仕えたい。
 それが叶わぬのは、自分の身に生命が宿ったため。
 嬉しかった。
 夫も共に喜んでくれた。
 それでも、傍に控えられぬことが悔やまれる。
 甄姫は祈る思いで笑みを作った。

「すぐに帰ってくる。
 心配するな」
 肩口からこぼれる髪を一房とられる。
 無骨な指がそれを優しく梳く。
 嬉しいという感情と、寂しいという感情が共にこみ上げる。
 しばらく、この手に触れられることはない。
「……はい」
 切なさを上手く隠せず、甄姫は一つだけ返事をする。
 一時の別れは、これほどまでに辛く、悲しい。
「ではな」
 手が離れていく。
 もう刻限が迫っている。
 心臓が不安で跳ねる。

「ご無事をお祈りしておりますわ」

 精一杯の虚勢を張って、笑ってみせる。
 己の姿がどんなに滑稽であろうと構わない。
 今の自分の姿は、夫への恋情の深さ故なのだから。
 甄姫は去っていく背を、ずっと見つめていた。



 
 房へ帰ってきて、甄姫は違和感を感じた。
 見送りに行く前と何かが変わっている。
 周囲を見渡すが、特に大きな変異はない。
 衝立も、榻も、飾られた花も。
 先程と変わらぬ場所にあった。

「あら?」
 見たことのない存在を認めて、飴色の瞳は動きを止める。
 卓の上に、見慣れぬ絹布があった。
 自分が置いた訳ではなく、もらった覚えもない。
 では一体誰が?
 甄姫は不思議に思いながらも、卓に近寄った。
「これは……」
 絢爛な装飾が施されたそれは丸められ、紐で括られている。
 そっと手に取り、紐を解く。
 すべらかな布には、文字が羅列していた。
 羅列した文字を、一つ二つと読んでいく。
 読んでいくにつれ、歓喜が胸の中に溢れていく。

「お早いお帰りを、お待ちしております」

 指先で蹟をなぞり、甄姫は極上の笑みを浮かべる。
 妻は夫の無事を一心に祈った。



 そなたと結ばれたばかりだと言うのに
 早くも離れ離れにならなければならぬ
 肌寒い風が秋の草を吹き揺るがす頃
 こおろぎは鳴き交わして 付き従い
 ひぐらしの音は冴え渡る
 鳴きつつ枯れ枝にすがりつくも
 枯れ枝が風に舞い上がる時
 その身もまた たちまちに移り変わる
 身の移りかわるは悲しまないが
 歳月が流れるのは悔やまれてならぬ
 歳月は流れ流れて果てしなく
 再会の訪れはいつの日だろうか
 出来ることなら連れ飛ぶ大鳥となり
 翼を並べて清らかな池で戯れたい


 於清河見輓船士新婚興妻別より

 【Wiki&漢・魏・六朝詩集を参考にさせていただきました】

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