否常識

 夜の帳が降りた頃。
 皇帝は己の寝所に一人の女を侍らせていた。
 最愛の妻であり、最大の臣を。


「甄はこれをどう思う?」
 曹丕は持っていた竹簡を、甄姫の方に見せる。
 寝室にまで持ち込んだ仕事の一つを、皇帝は軽々しく手渡した。
「あら、政のことを女にお訊きになるのですか?」
「臣下の意見は聞き飽きた。
 新しい意見が欲しい」
 書卓に肘をつき、妻を見上げる。
 鮮やかな笑みはは、微かに困ったような表情をしている。 
 
 ――身近な臣は、いつも同じことを言う。
 曹丕さまのお考えは正しい。
 皇帝陛下のお心のままになさればよろしい、と。 
 皆不変を好み、新しいことを嫌った。
 それゆえ、朝は停滞を余儀なくされていた。
「もし私が、民のためにならない助言をしたらどうなさいますの?」
 鈴を転がすような声で、甄姫が笑う。
 その笑みはまさに艶。
 長いこと共にいるというのに、いまだ飽きることはない。
 理由など分かっていた。
 艶やかな笑みは、その時々で表情を変える。
 だからこそ、興味がつきることなどないのだろう。
「別に全てを聞き入れる訳ではない。
 様々な意見を知りたいだけだ」
「我が君らしいお答えですわね」
「どういう意味だ?」
 麗しい女人の考えを聴いてみたくて、青年は問う。
 目の前にいる佳人の言葉は、耳に新しいことばかり。
 性別の違いゆえか。
 それとも、生まれ育った環境ゆえか。
 どちらにしても、青年は妻の声を知るのが楽しみであった。
「普通の人間はそうはいきませんわ。
 誰かの言葉に耳を傾ければ、流される者もおります。
 全てを聞き、まとめ、自らのものにすることは容易ではありません」
 高い声が房に響く。
 優しい音とは言えぬそれに、曹丕は聞き入る。
「そういうものか」
「ええ」
 はっきりと頷いた妻を見て、曹丕は笑みを深くする。
 また一つ、新しい意見を耳にできた。
 貪欲な心が少しづつ満たされていく。

 自分の持っている考えは、あまりにも当てにならない。
 そう思い始めたのは、甄姫と出会ってからだった。
 人はこういうものだ。
 このような性格の者は、こういう振る舞いをする。
 いつも、曹丕はそうやって全てを決め付けてきた。
 世の中には『常識』が存在し、それは不変であると考えていた。
 
 しかし、ある日『常識』は覆される。
 甄姫という一人の女の手によって。
 幼い頃からの考えを、妻は時に否定し、塗り替えていった。
 『常識』は『常識』ではなくなり、思考の一つに成り代わった。

 ――幾度となく繰り返され、それはやがて日常となっていった。

 だから、曹丕は妻に何度も意見を求めた。
 政のこと、周囲の人間のこと、狩りのこと。
 どんなことでも。
 新しい声は糧となり、己の心に生気をもたらした。
 生きることに執着を持ち始めたのは、妻を得てからだった。

「甄は私を買いかぶりすぎている」
 妻は夫を良く褒めた。
 まるで睦言を交わしているかのような、甘い響きが耳に心地よい。
「そんなことはありませんわ。
 真実を言ったまでです」
「なら、そういうことにしておくか」
「感謝いたしますわ」
 どこかで見たようで、見たことのない笑みが浮かぶ。
 その様子に、曹丕も満足そうに目を細めた。


 絶世の美女は、今日も言う。
 夫の心を満足させるため。
 夫の愛する大地のため。
 忠言という名の睦言を。
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