欲したもの
欲しいものは、と訊かれた。それに私は答える。
「平穏」と。
ずっと欲しいものがあった。
本当ならば手に入れたいと思わなくとも、手に入るもの。
普通ならば、誰もが持っているもの。
それが、ずっと欲しかった。
温かい手。
優しい微笑み。
愛情。
欲しかった。
楽園のように温かい場所が欲しかった。
手を差し伸べて、誘って欲しかった。
傍に、いて欲しかった。
頭を撫でて。
名前を呼んで。
共に笑い合って。
何度も何度も心の中で繰り返した。
傍に、傍に。
すぐ傍に。
願って、祈って、声をかみ殺した。
言うのが怖かった。
告げるのが恐ろしかった。
だから、ただ心の中で呟いた。
笑って、愛して、髪を撫でて、と。
欲しかったのは、誰もが手に入れることができるはずのもの。
天が平等に与えたはずのもの。
微かな温もりも、笑みも。
自分はもらうことができなかった。
「我が君」
声がする。
それはひどく、温かく。
まるで陽だまりのような音。
優しい旋律。
「愛しておりますわ」
告げる女の顔には、慈愛に満ち溢れた笑みが存在する。
それはひどく、甘やかで。
まるで天からの使者のような表情。
愛を知る微笑。
ああ、ここは天の上なのかもしれない。
ふとそんなことを考えてしまうほど、ここは温かさに満ち溢れていた。
手が触れる。
温もりが伝わる。
髪がゆっくりと梳かれる。
心地よい感覚が身の内にこみ上げてくる。
「……まるで夢のようだな」
発した言葉が、風にさらわれる。
後には何も残らない。
「ここは現実ですわ」
甘やかな声が耳に残る。
優しく、美しい旋律は心を酔わせる。
声は現実だと言う。
ここは夢でも天上でもなく、間違いなく天の下だと告げる。
「そうか」
麗しい声に、温もりに。
ただ一言、『是』と答える。
ここは現実で、夢ではない。
では今ここにあるものも、きっと現なのであろう。
温もりも、心地良さも、優しい微笑みも。
そして、愛情も。
「やっと手に入れることが出来たな」
男は、微笑みを浮かべて呟いた。