小覇王

「兄上は……悔しくはないのですか?」

 突然、弟の孫権が口を開いた。
 孫策は、卓の上に広げられた竹簡から目を離した。

「どうしたんだ、いきなり?」
 見上げれば、そこにはどこか憮然とした感じの弟がいた。

「小覇王という名のことです。
 皆、兄上を馬鹿にしているのですよ!」

 碧眼の青年は、声を荒げる。
 今まで、ずっと我慢していたのだろう。
 怒りが頂点に達した、と言う感じだった。
「そんなの知ってるさ」
 今更だな、と孫策は笑った。

「ならば、なぜ黙っているのですか!?」

 自分よりもこいつの方が激情家なんじゃねぇか?
 思わずそんなことを思う。
 孫策はそれが面白くて、口の端を歪めた。

「言いたい奴には言わせとけ。
 そのうち飽きるんじゃねぇか?」
 ははっと声を上げて笑う。
 鋭い視線が、じっとりとこちらを見ていた。

「兄上……」
「何でお前が気にするんだ?
 俺のことだろうが」

 卓に片肘をつき、話を聞く体制に入る。
 話しちまえば落ち着く。
 弟である孫権の性格を、兄は良く知っていた。

「……私は、私は悔しいのです。
 これほどまでにご立派な兄上が、何も分からぬ奴らに愚弄されることが」

 拳をぎゅっと強く握り、孫権は悔しそうな表情を見せた。

 小覇王。
 聞こえは、とてもいい呼び名だ。
 英雄である『覇王』項羽。
 表向きは、それに次ぐ者という意味で『小覇王』。

 だが、裏を返せば『孫策は項羽のように、最後はこの乱世に呑まれる愚か者』。
 そんな意味をも隠されていた。
 項羽は、その武こそ素晴らしいものだった。
 だが、彼は激情を制御しきれず、身を滅ぼしたと言ってもいい。
 その辺りを揶揄している。
 つまり、周囲の者はこう言いたい。


 孫策は愚かで、いつかその激情ゆえに、その身を滅ぼす、と。


「何か、そう言われると照れるな」
 まっすぐと弟の眼を見る。
 色素の薄い瞳が、自分を捉える。
 権は気がついているのだろうか?
 江東の碧眼児という名も、異形であるというだけの意味ではない。
 生粋の漢民族ではない者。
 どこかに、そういう皮肉った真意がある。
 呉の者を、小馬鹿にした表現だということに。

「兄上」
 権は、相も変わらずこちらを睨んでいる。
「悪い、悪い。
 ありがとな、権」
 にかっと笑ってみせると、目の前の青年は盛大に溜息をついた。
「どうして兄上は……。
 呑気というか、鷹揚であられると言うか……」
「褒めてるのか?」
「まあ、得てして言えばそうですね」
 諦めたように、弟は言った。
 自分のことを気にかけてくれる、親類は心強い。

「今は小覇王だけどよ」
 孫策は、ぽつりと呟く。

「?」

「いつか、覇王になってみせる」

 真っ直ぐに見据えた先には、確かな希望。
 夢は、現実のものになる。
 孫策の中で、それは確信となった。

「彼のように、ではありませんよね?」

「もちろんだ。
 『天下を治める』って意味でな」

 顔を見合わせ、二人はうなずき合う。

「どこまでもお供いたしますよ、兄上」
「おう、よろしくな!」

 兄弟は、互いの心に誓う。
 孫呉の未来を、栄光を。
 誰も成しえない、偉業をやってみせる。

 そう、心に決めた。
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