良夫
「良き夫とやらを演じてみるか」長身な青年は、ポツリと呟いた。
「……いかれるおつもりですか?」
すぐ横にいた痩身の男が、諫めるような声で問う。
「無論」
曹丕は、無駄な言葉を口にしなかった。
意志を形にするには、一言で充分だった。
「この戦においてのご自分の立場がお分かりですか?」
黒羽扇をゆったりと揺らしながら、男が尋ねる。
「分かっていたつもりだが?」
「そうは思えません」
格上の人間に物を言うというよりは、まるで子どもの悪戯を叱るような口調。
それは、彼がかつて青年の教育係だったせいなのだろう。
「総大将の決定は絶対。
違うか?」
「おっしゃる通りでございます」
司馬懿は、やはり羽扇で風を作りながら、そっと頭を下げる。
この戦の総大将は、ああ、と一つ声を出す。
思い出したように、笑って。
「何かあれば、お前に任せる。
これで文句はなかろう」
上官は、軍師に命を言い渡した。
「そのお言葉をお待ちしておりました」
一瞬、男の動きが止まる。
明らかに楽しそうに、若き軍師は言った。
「ふっ、こんな一言のために引き止めたのか。
仕える身というのは難儀だな」
青年は微苦笑する。
目の前の男は、自分が行くのを引き止めた訳ではない。
ただ、行く前の用意が足りないと、たしなめただけだった。
「労いのお言葉、しかと拝受いたしました」
頭を垂れたまま、痩せ身の男は、声を発する。
きっと笑っているのだろう。
その真意までは図り知ることはできないが。
「では行ってくる」
「お帰りを心からお待ち申しております」
曹丕にとっての片腕は、やけに丁寧な言葉を並べた。
自らを夫と称した青年は、一人の部下を残し、馬にまたがる。
そして、単騎で戦場を駆け抜けて行った。
傍に置くに相応しい女の元へと――。