新城の戦い

「兵を大きく移動させたのだな」

 卓に肘を付き、曹丕はポツリと呟いた。
「はい、僭越ながら」
 浅く頭を垂れ、仲達は言った。
「訳を言え」
 不機嫌に、皇帝は忠臣に問う。
「曹魏のため、ではご不満ですか?」
 痩身の男らしい答えに、眉を一層つり上げる。
 どうやら、言う気はないと見える。
「……あの者たちをどうした」
 今度は、直接的に訊く。
 何が何でも、曹丕は真の答えを知りたかった。
 それが皇帝の務めであり、人としての常だったから。
「あの者とはどの者でしょう?」
 ゆらりと羽扇が揺れる。
 微かに、風が起こる。

「とぼけるな。
 分かっているだろう」
 仲達を凝視する。
 表情はほとんど変わっていなかったが、口元だけが僅かに上がっていた。
「さて、一向に」
 頭を上げようとはしない男に苛立ちを覚えながらも、曹丕は声を抑えて言う。
「元、裏切り者たちと言えば充分か?」
 睨みつけ、問いただす。
 真実を知ったところで、何も出来ない。
 それでも、曹丕は聞きたかった。
 
「あれでしたら、暇を出させました。
 休みが欲しいとねだられましたので」
 ゆったりと頭を上げ、述べる。
 明らかな嘘だと、曹丕は確信した。
 表情が変わっていない。
 長い付き合いだ、目の前の男の感情など手に取るように分かる。
「ほぉ。
 永久の休養か」
 青年は、口元を歪める。
 怒りゆえの笑みだった。
「何が仰りたいのですか?」
 一つ息を吐き、仲達は声を紡いだ。

「殺ったのか?」

 青年は低い声を一層低くする。
「誰をでございましょう」
 仲達は口元を羽扇で隠しながら話す。
「殺ったのだな」
 確信がすぐ目の前まで来た。
 焦りからか、いつの間にか手は拳を作っている。
 付いている方の手にも、力が入る。
 頬に、爪が食い込む。
「……だとしたら、いかがなさるおつもりですか?」
 しばしの沈黙ののち、仲達は口を開いた。
「そこまでする必要はなかった!」
 怒りのままに、青年は卓を叩く。
 バンッと大きな音が部屋に反響する。
「二度目は許されません」
 きっぱりと、男は断言する。
「なかったやもしれぬ」

 万が一の可能性を、優先した。
 ありえるかもしれない未来。
 ありえないかもしれない未来。
 それを元から絶った。
 軍師らしい、いや司馬仲達らしい処遇だった。

「まだそんなことを仰るのですね」
 呆れたように、痩身の男が溜息を漏らす。
「どういう意味だ」
 真意など、訊かずとも知っていた。
 甘いと言いたいのだろう。

 皇帝は民のため、少しでも長く在位し続けることが望ましい。
 短い治世は、乱世と同意義。
 天下を治める者は、玉座にいるということが大儀なのだ。

「いえ別に」
 また、男は頭を垂れる。
「お前をこの場で切り捨ててやりたいと思うても、
 出来ないのが口惜しいな」
 ふんと息をつき、曹丕はまた肘を付いた。
 今ここで、これを切るのは容易い。
 けれど、それはこの大地のためにならない。
 魏にはまだ、この男の知が必要なのだ。
 それが分かっているから、曹丕はそれ以上何も出来なかった。

「光栄の至りにございます」

 ますます頭を垂れ、男は礼をとる。
「もういい、下がれ」
 空いている方の手で、退室を促す。
「御意のままに」
 もう一度頭を深く下げ、仲達はその場を去っていった。

 曹丕は静かに息を吐き、己の不甲斐なさを呪った。
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