公嗣

 公嗣と言う名を与えられた時、正直戸惑った。
 正統なる後継者。
 その意味が分かってしまったから。
 父が自分に求めるもの。
 周囲が自分に期待するもの。
 それら全てを、改めて知ってしまったから。
 なりたくなんてなかった。
 自分は施政者には向いていない。
 誰よりも仁を尊び、強い信念を持つ父の代わりにはなれない。
 だから、そこから逃げ出したいと思ってしまった。



「劉禅さま」
 声をかけられた。
 誰が背後にいるのか分かったから、劉禅は口元に笑みを湛えた。
「星彩。
 こんな夜遅くにどうしたんだい?」
「劉禅さまのお姿が見えましたので。
 このような時刻に、誰も供をつけないのは危険です」
 ほぼ無表情で少女が言う。
 それでも、微かに声が揺れている。
 怒っているのか、それとも心配してくれたのか。
 どちらにしろ、劉禅は嬉しかった。
 愛しいと思う人が、自分の側に来てくれたことが。
 空は一面、闇に包まれている。

「すまない。
 君の手を煩わせてしまったね」
 こちらが苦笑すると、少女は目の前に傅く。
 幼い頃から繰り返されてきたそれを、いまだ受け入れることが出来ない。
 劉禅は眉をひそめた。
「いいえ、どうか私のことはお気になさらないでください」
 彼女の言葉は幼馴染みとしてではなく、主への言葉だった。
 チクリと胸に何かが刺さった。
「面を上げてくれないか?」
「はい」
 目の前の少女は実に模範的な僕だった。
 こちらの望みを違えることはない。
 今もやはりそうで、素直に従った。
 まるで、感情など存在していないかのように。

「……星彩は、忠義者だね」
 良くも悪くも。
 愛しい人は純粋だ。
 また、胸に何かが刺さる。
 チクリチクリと、痛みは徐々に増えていく。
「ありがとうございます」
 礼の言葉を紡いだ口元が、わずかに笑みの形を作る。
 本当に、良くも悪くも純粋で。
 それが余計に自分を苦しめる。
「星彩は私の言うことなら、何でもきくのかい?」
 訊いてはいけないことだった。
 答えなど知れたこと。
 彼女は首を横に振ることはない。
 自分が皇帝である限り。

 それでも、問わずにはいられなかった。
 ほんの少しの可能性を信じてみたかった。
「はい」
 真っ直ぐにこちらを見つめて、少女が答える。
 予想は、残念ながら当たってしまった。
 瞳を、現実を。直視することが出来なくて、劉禅は視線を逸らす。
 訊かなければ良かった。
 後悔ばかりが心を占めていく。
 苦しくて、劉禅は一つ息を吐いた。
「劉禅さまが、それをお望みなのでしたら」
 凛とした声が耳に届く。
 思いもよらない言葉に、劉禅は少女を振り返る。
「それは、どういう……」
 心臓が脈打つ。
 常よりも大きく、早鐘を打ち始める。

「もし劉禅さまがお望みでしたら、です。
 そうでないのなら、言う通りにはいたしません」
 強い意思が音になる。
 月明かりの元で輝く瞳には、一点の曇りもない。
 そこにあるのは、透明で綺麗な心。
「星彩」
 そよと吹く風に声をのせる。
 何度呼んでも飽きることなどない、愛おしい少女の名を。
「はい」
 声が返ってくる。
 ずっと聴いていたいと思わせる優しい音が、心に響く。
 なぜ私の欲しい言葉を知っている?
 なぜそんなに無垢でいられる?
 問いかけてみたかった。
 知りたかった。
 けれど、劉禅はそれをしなかった。
 代わりに、首を横に振ってみせた。

「いや、私はもう床につこう。
 明日も早い」
 夢から覚めれば、待っているのは自分が望んだ訳ではない未来。
 皇帝として、後継者として。
 照烈帝の遣り残したことを消化していかなければいけない。
 逃げてしまいたい、やりたくない。
 それでも、彼女が傍にいてくれる。
 たったそれだけのことだけれど、救われた気がした。
 星彩と供になら、やっていける。
 そう、思った。 
「部屋までご一緒いたします」
「ああ、よろしく頼むよ」
 回廊を二つの影が進む。
 星に見守られ、月に照らされながら。
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