暑日

 夏の暑い日であった。
 いつもと何ら変わらぬ、ただ暑い日だった。
 それ以上でも、それ以下でもなく。
 本当にただ暑い、五月十七日のことだった。



「残ったのは、私だけか」
 痩身の男はぽつりと呟いた。
 生ぬるい風がすぐ横を通り過ぎ、言葉をさらっていく。

 誰も、いない。

 乱世を駆け巡った同胞と呼べる者たちは、誰一人いなくなった。
 自国にも、他国にも。
 口の端を上げ、男は笑みにも似た声を発する。
「最後の一人になるのも良かろう」
 やけに青く澄んだ天の下。
 自嘲気味に表情を歪めた男の姿があった。

 ***

「仲達」
 人払いのされた房に、若い声が響く。
 名を呼ばれて、男は青年の方に視線を移した。
「なんでございましょう?」
 神妙な面持ちの青年は、漢ではなく青年であった。
 若さのせいではない。
 覇気があまり感じられない。
 思わず、男は眉をひそめた。

「……私は、父よりも劣ると思う」
「なぜそうお思いになるのですか、元仲さま?」
 否とは言わず、わざとらしく青年の字を呼んだ。
 新しき皇帝の言葉に、嘘偽りはない。
 それでも、痩身の男は口にしなかった。
 音にすることが、すでに無駄であったから。
「皆を見ていれば分かる。
 だがそれでも、私は曹魏のためにつくしたい」
 その言葉に含まれた真意を、仲達は無視することにした。
 
 仲達は知っていた。
 そして、目の前の皇帝も知っていたのだろう。
 曹丕の次は、曹植にするべきだという、戯言を。
 しかし、先帝である曹丕が後事を託したのは、この青年であった。
 まだ若い、曹丕の息子。
 曹叡に託した。
 仲達がこの青年に仕える理由は、それで良かったのだ。
 それ以上もそれ以下もない。
 先帝の言葉は絶対。
 あの男が残した最期の、最善の策。
 最も短い時間で、この大地を一つにするために、仲達はそれに逆らわない。
 
「良きお考えかと」
 ありふれた言葉を並べる。
 これで、この主には充分だった。
 文帝とも、武帝とも違う。
 愚鈍ではないが、最善ではない。
 天の下を統べるには、最良の者ではいけないのだ。

「そのためには、お前の力が必要だ。
 頼む。曹魏の……いや、この天下の平安のために力を貸してくれ」
 弱き瞳が語る。

 一人では無理だ。
 助けて欲しい。
 自分は皇帝にふさわしくない、と。

 布をさばき、頭を垂れる。
 衣擦れの音が、場に広がる。
「……御意のままに」
 痩身の男は、ただ一言そう述べるに留めた。



 一人の漢の命はあまりにも短いものだった。
 死してなおも、漢の功績は偉大だと評された。
 五月十七日。
 天の下を統べるべくして生まれた漢・曹丕は、天の上へと昇った。
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