与えられた名
あれはまだ、兄が生きていた頃だった。「なぁ権」
名を呼ばれて、孫権は声のする方に振り返った。
「何ですか、兄上?」
「お前に一つ、頼みたいことがあるんだ」
いつもと変わらない笑顔で、兄・孫策は言った。
「私に出来ることなら」
孫権は、嬉々として答える。
尊敬する兄が、自分を頼ってくれることが純粋に嬉しかった。
「安心しろ。
お前にしか出来ないことだ」
「私にしか?」
その言葉に少し疑問を覚えながら、孫権は首を傾げる。
「お前が、孫呉を支える立場になった頃にはよ、陸家もきっと降るだろう」
「兄上、何を仰られるのですか!」
思わず、大声で叫んでしまった。
兄の姿が儚く見えたから。
不安が、胸に広がっていく。
「まあとりあえず聞けって。
でな、その時には『孫』の字を一字与えてやって欲しい。
字でもなんでもいい。
孫呉の仲間だってことを、認めてやってくれ」
「それは、兄上がなさることです!」
まるで『遺言』を聞かされているようだった。
孫権はそれが嫌で、なおも声を荒げる。
「俺には出来ない。
そんな気がするんだ。
何しろ、俺はあそこを一度潰してるしな」
「しかしあれは、袁術殿の命であって仕方なく!」
「分かってる。
別に後悔してる訳じゃねぇよ。
言っとくが、まだ死ぬつもりもねぇ。
念のためだ、念のため」
ははっと声を上げて兄が笑う。
それすらも、どこか覇気がないように思える。
幼子のように、泣きじゃくりたい衝動に駆られる。
やめてくれと、何度も叫びたくなる。
「兄上……」
「そんな顔するなよ。
どっちにしろよ、俺が天下を統一したらお前に跡を頼む気なんだからよ」
「私より、兄上の子がなるのが道理でしょう」
「ま、それを最終的に決めるのは俺だけどな」
いつものように笑った兄の表情が、どこか寂しげに見えた。
それからしばらく後、孫策はこの世を去っていった。
***
「名を陸議。
字を伯言と申します。
この度は呉主であらせられます孫権様に、お願いの議があってまいりました」
時は流れた。
呉の跡目に孫権が立ち、間もない頃。
陸家の若き頭領が訪れた。
先代孫策が亡くなってから、幾年も経たぬうちに。
「申せ」
頭を垂れる少年を見、孫権は重い口を開く。
「私ども陸家は、孫家にお仕えしたいと考えております。
故に馳せ参じた所存にございます」
「ほう、陸家が孫家に降ると?」
「はい。
若輩者ではありますが、少しでも孫呉のためにお力になれればと」
少年の声が微かに震えている。
それすら、孫権にはどうでも良かった。
「なぜ、今この時期に?」
一番訊きたかったことを問う。
あと少し。
あと少し早ければ。
本当にわずかの差で、間に合わなかった。
兄の生前の言葉が思い出されて、何とも言えぬ感情が生まれる。
あの時すでに、兄は悟っていたのだろう。
自分の死期が近いことを。
「私の力及ばずに、一族の意をまとめることに時間を要してしまいました。
この場を持ちまして、非礼をお詫びいたします」
偽りか、真実か。
見極めようにも、少年の表情は見えない。
顔を上げさせることも出来た。
それでも、孫権はそれをしなかった。
全てが今更すぎる。
知っても、伝えたい人はここにいない。
「……陸議、と言ったか。
名を、変える気はないか?」
一瞬、周囲が騒がしくなる。
眉をひそめると、側で控えていた周瑜が無言で制する。
「孫権さまの仰せのままに」
静まり返った堂に、声が響く。
擦れそうになるのを必死に堪えている。
そんな響きだった。
視線を送ると、筆と硯、竹簡が用意される。
兄上。
今、あなたの願いを叶えます。
墨をすりながら、孫権は心の中で語りかける。
尊敬してやまない、絶対に超えられない兄に向けて。
聞こえるはずもない、伝わる訳もない。
それでも、孫権は懸命に祈る。
死してなおも、憧れる存在に。
「では、これよりそなたは名を改めよ。
陸議と名乗ること、まかりならず。
『陸遜』と名乗るが良い」
孫の文字を一字与える。
兄から聴いた『願い』は、今叶う。
遜るという意味を持つ字によって。
「ありがたき幸せ」
より深く頭を垂れる少年、陸遜。
その姿はまだ頼りない。
父のような威厳も、兄のような逞しい体もない。
誰から見ても、若輩者に見えるだろう。
まるで、自分のようだ。
孫権は自嘲気味に口の端を上げる。
これから。
孫呉の全ては、これから始まる。
「これで、お前たちも今日から孫呉を担う一人。
よろしく頼むぞ」
「ありがとう、ございます」
堂に響くは、未来への希望の声。
孫呉に幸あらんことを――。