無謀
「行かれるのですか?」静かな房室に、自分の声は思いのほか響いた。
こちらに背を向けて立つ主の姿を、男は目に焼き付けようとする。
「……行く」
鎧に身を包み、剣を腰に佩いた小柄な男。
劉元徳は短い答えを返す。
これが最後になるだろうか。
これが遺言となるのだろうか。
「そう、ですか。
もうお止めしても無駄のようですね」
手にしていた白い羽扇を、僅かに揺らす。
小さな風が頬を撫で、通り過ぎていく。
目の前に立つ主は、強い意志そのものであった。
こうと決めたことは必ずやり遂げようとした。
それがどんなに無謀で、知略の欠片もないことでも。
だから今、自分には止めることなど出来ない。
……それでも、声をかけずにはいられなかった。
「孔明」
低すぎぬ声が己の名を呼ぶ。
「はい」
孔明と呼ばれた男は、それに声を返す。
「はっきり言おう。
私は……雲長と翼徳のいない蜀などいらぬ。
あの二人がいないのならば、私に生きている意味はない」
発せられた言葉に、心臓が鷲掴みにされる。
苦しく、辛く。
思わず眉をひそめてしまうほどに。
口調が激しい訳ではなかった。
高すぎずる訳でも、低すぎる訳でもなかった。
ただ、一番聞きたくなかった言葉だった。
いらないと。
必要ないと言われたこちらの立場など。
今まで仕えてきた主にはもう、関係ないのだ。
「承知、しております」
喉から出そうになる言葉を飲み込み、孔明と呼ばれた男は言う。
「……あとを頼む」
死に場所を求めて彷徨う魂から、後事を託される。
皮肉にも、目の前の男にはまだ良心が残っていた。
いらないといった国を。
いらないといった臣下を。
いらないといった家族を。
頼んでから死にに行くのだ。
何と身勝手な振る舞いだろうか。
どうせなら、と孔明は思う。
どうせなら全てを壊してから行って欲しかった、と。
未来への可能性など、一つも残さずに行って欲しかったと。
「……おまかせください」
白羽扇を胸元に留め、男は頭を垂れた。
憎めれば幸いだったかもしれない。
殺したいほどの感情が持てれば楽だったかもしれない。
けれど、そんな感情は一雫も湧いてはこなかった。
残るのは喪失感のみ。
「うむ」
しっかりとした返事のあと、鎧どうしが打ち合う音がした。
ずっと背を向けたままだった主は、最後までこちらを見ることなく、房室を去って行った。
223年。
劉元徳死去。
恨みに囚われ、無理に出兵したことにより呉に大敗を帰す。
人は口々に『時の陛下は狂われていた』と噂した。
それを聞き、ただ一人の男だけは言うのだった。
あの方は正気であった、と。