請願

 大地を、雨が包み込む。
 生きるものにとって、恵みの雨。
 潤し、癒す存在。
 みな感謝せずにはいられないものを、陸遜は疎ましいと感じていた。
 あたりを見回しながら、回廊を走る。
 言い切れぬ不安に身を刻まれる思いで、少年は歩みを進めていた。



「……!!」
 視界の端に、何かが入る。
 雨に濡れるのも構わず、陸遜は走り出した。
「……こんなところにおいででしたか、姫様」
 声に反応して、一瞬びくりと体が動く。
 生きている。
 陸遜は安堵の溜息を漏らした。

 赤とも茶色とも言えぬその髪は、濡れていた。
 以前見たような男らしい装いではなく、美しい衣を身にまとっている。
 太陽のように明るかった彼女に似合いの、赤や緑の裳裾。
 所々に橙や黄色があしらわれている。
 女性らしい姿に、陸遜は胸の高鳴りを抑えられなかった。

 金糸で施された刺繍も、透き通るような羽衣も、今は泥にまみれていたが。

「……」
 シャンと髪飾りが揺れて音がする。
 彼女は、ゆっくりとこちらを仰いだ。
 心臓が跳ねる。
「風邪を、ひいてしまいます」
 泣いていた。
 それがすぐに分かるほど、彼女の目は赤く腫れていた。
 出会ったその瞳が、何とも痛々しくて陸遜は視線をそらしたくなった。
 先程までの胸の高鳴りは、違う意味で激しくなる。
「……中に入りましょう。
 殿もお待ちです」
 陸遜は自分の心を奮い立たせ、声をかけた。
 いつまでもここにいては、彼女の体温は奪われていくばかり。
 良いことなど一つもないのだから。
「みんな、知ってたのね……」
 うつろな瞳が揺れる。
 やっと、視線が絡まった。

「ええ……、そのようですね」
 あいまいに返事をする。
 何を言っているのか、すぐに解ってしまったから。

「分かってて、みんな私を送り出したのね!」

 長い裳裾がふわりと揺れる。
 立ち上がった拍子に、甘い香りが微かにした。

「はい……」

 不安定な体が傾ぐ。
 陸遜は慌てて彼女を抱きとめた。
 甘い芳香が、一層強くなる。
 思っていた以上に低い体温に背筋が凍る思いだった。
「どうして、どうしてっ……!!」
 胸の中の彼女が、暴れる。
 その体をぎゅっと抱きしめた。
 
 少しでも慰めになるのなら。
 少しでも温もりを与えられるのなら、と。

「……申し訳ありません」

 謝る必要はない。
 そう知りながらも陸遜は謝った。
 それで、彼女の気が晴れるのならと。

「どうして謝るの!
 あなたが……悪いわけじゃないのに!」

 もちろん、彼女もそれは知っていた。
 あの時、目の前の少年がいなかったことを。
 八つ当たりだと、少女だって分かっている。
 そのくらい、両者とも理解していた。

「申し訳、ありません――」

 もう一度謝罪を口にした。
 無駄かもしれない一言を。

「もういいっ……!
 ……わたしが、みじめじゃない!
 りくそん……は、優しすぎる……」
 
 最後は蚊の鳴くような声だった。
 もう、嗚咽しか聞こえない。

「……すみません」
 言うなといわれても、言わずにはいられなかった。

 あまりにも悲しくて。
 あまりにも辛そうで。

 陸遜は腕に力を込めた。

 薄暗い空を仰ぎ、陸遜は切に願った。



 ――どうかこの雨が、彼女の悲しみをも流してくれますように――
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