おいていかないで
「この江は、まるでお前たちのようだな」突然流れの変わった江を見て、孫堅は言った。
「どういう意味だ、親父?」
長子孫策は、父親に目を向ける。
「流れのはやい江が、ですか?
それとも、先ほどの江のことでしょうか?」
孫堅の言葉の真意を考えつつも、次子孫権は問いかける。
「さっぱり意味が分からないわ。
教えて、父様」
最初から考える気などないと言った感じで、末姫の尚香は首を傾げた。
「ははは、相変わらずだな、お前たちは。
まぁ、両方と言っていいだろう」
豪快に笑い、父親は子どもたちを交互に見る。
「父様、それ答えになってないわ」
苦笑して一つ息を吐き、尚香は江東の虎を見上げる。
たまに、父は妙なことを言う。
嬉しそうに、穏やかな表情で。
その時が、尚香は大好きだった。
「まぁまぁ、そう急かすな」
顎のあたりをさすりながら、男は笑う。
楽しそうな顔をしている。
それにつられてか、兄たちもにこやかだ。
「お前たちは、この江のように強く、そして優しい」
少し間をおいて父が言った言葉は、そんなありきたりな科白。
「ああ、そうだな。
確かに権は優しいよな」
「父上の言われるとおりですね。
兄上は、この江のようにお強い」
仲の良い兄たちが、互いを褒めあったのを見てにこりと笑う。
こういう二人と兄妹であることを、尚香は嬉しいと思った。
「じゃあ、私はどっちもね」
少女の言葉を聞いて、二人の兄は驚いた表情を見せる。
そして、そうだなと笑った。
孫家の姫は嬉しくて顔をほころばせる。
「お前たちは本当に仲が良いな。
父として、誇りに思うぞ」
江東の虎は三人の顔を交互に見る。
心底喜んでいるのが、手に取るように分かる。
「大げさだな〜」
「そうよ」
「それは光栄ですね」
口々に子どもたちは答える。
父親は豪快に笑ってから、最後に告げた。
「私は幸せ者だな」
と。
****
「姫様」
誰かに呼ばれた気がして、尚香は目を開けた。
「こんなところで寝ていると、お風邪を召されますよ」
声の方を向けば、そこには若き軍師の顔。
見慣れた少年が困ったように笑っていた。
「陸遜……」
ぽつりと彼の名を呟く。
辺りを見渡しても、江などはない。
あるのは、一面の緑と所々に咲く花。
どうやら膝を抱えたまま、木陰の下で眠ってしまっていたようだ。
「……」
尚香は、今の光景が夢だったことに気がついた。
少し前の、まだみんなが生きていた頃。
温もりが隣にあることが、当たり前だと思っていたあの頃。
失うものなど、何もないと信じていた――。
「……あなたは、私をおいていかないでね」
口をついて出た言葉は、何とも情けないものだった。
僅かな沈黙が、その場を支配する。
風が、二人の間を通り抜ける。
さらさらと、葉擦れの音が耳に届く。
「どう、されたんですか?」
先に沈黙を破ったのは、陸遜だった。
彼は膝を折って、こちらに視線を合わせた。
瞳には明らかな動揺が走っている。
尚香は、それを無視することにした。
「夢を見たの。
懐かしい、懐かしい夢。
父様も、策兄様も生きていたころの夢」
少年の服の裾をきゅっと掴む。
逃げないで欲しかった。
傍にいて欲しかった。
慰めて欲しかった。
温かい言葉をかけて欲しかった。
だから、意図的に尚香は裾を掴んだ。
「そうですか……」
彼は知らない。
あの頃が、少女にとってどれだけ幸せな日々だったか。
尚香の周りに、どれだけ温かなものが溢れていたか。
寂しそうに、陸遜は答えた。
否定も肯定もせず、ただ認めてくれた。
尚香は、ほんの少し救われた気がした。
「陸遜は、おいていかないでね」
精一杯、泣きそうな声でささやく。
もう、誰にも置いていかれたくない。
どこにも行ってほしくない。
残されるのは、望まない未来。
「…………精一杯、頑張ります」
見上げてみれば、そこにはやっぱり困ったように笑う陸遜がいた。
どんな言葉が正しいのか。
答えはこれで間違っていないのか。
そう問いかけるような笑みが、こちらを見つめていた。
「あなたらしいわね」
笑ってみせた尚香の頬には、一筋の雫が伝っていた。