この笑顔だけは

 初めて会った時、あなたは笑ってくれた。
 『よろしくね』と言った声は嬉しそうで。
 心から歓迎してくれていることに、気がつかされた。

 多分、あの瞬間から。
 私の心はあなたに奪われていた。



 
 微かに届く太陽の光の元、少年は書き終えた竹簡をもう一度見直す。
 薄暗い房の中に、乾きかけの墨の匂いが漂う。

「陸遜!」
 元気の良い声が、耳に届く。
 それが嬉しくて、陸遜は口元に笑みを浮かべた。
 見ていた竹簡から視線を外し、ちらりと見上げる。
 院子の花でも、飛び込んできたのかと見紛う程、場が明るくなった。
「今度は何ですか、姫様?」
 房に入ってきた少女は、とびきりの笑顔だった。
「一緒に鍛錬しない?
 天気もいいし、ちょうどいいと思うの」
 軽装姿の姫君は、楽しそうに声を上げる。
 弓腰姫らしい、発言だった。

「もう少し待っていただけませんか?
 これに、目を通さないといけないんです」
 苦笑してみせれば、少女は不満げな表情をする。
「あら、私よりも大切なもの?」
 何とも不条理な言葉だったが、苛立ちは覚えない。
 彼女の魅力の一つだと、陸遜は良く知っていた。

「そうですね。
 個人的には、姫様を優先させたいのですが。
 私一人の力では、何ともなりません」
 本心を告げると、一層眉をひそめる。
 そんな仕草が、とても愛らしいと思った。
「陸遜はいつもそう。
 人を丸め込むのが上手ね」
 ふうと溜息をつき、少女は手近にあった椅子に座った。
「私は本当のことしか言いませんよ?」
 竹簡に目を落として、陸遜は答える。

 彼女が大切で、何よりも優先させたくても。
 自分は、責務を怠ることは出来ない。
 それが臣下の務めであって、当然のことだから。
 孫呉のために、陸家のために、目の前の少女のために。

 やるべきことは、たくさんあるのだ。

「それは嘘ね。
 だって、陸遜はいつも笑ってるじゃない」
「笑っていたら、嘘つきなのですか?」
「あなたの場合、そう見えるのよ」
「これが普通なんですが」
「普通に見えないから言ってるんじゃない」

 会話を続けながらも、陸遜は書簡に目を通す。
 尚香と一緒にいるようになってから覚えた、特技の一つ。
 これくらい出来ないと、仕事は一向に進まない。

「……平行線ですね」
 しばらくしてから、そっと顔を上げる。
「そうみたいね」
 ふくれっ面の少女と出会う。


 こぼれた笑い声が、重なった。
 それは、しばらくの間続いた。


「さて、では行きましょうか」
 一通り笑い合った後、陸遜は立ち上がった。
「終わったの?」
 不思議そうに訊かれる。
 見開かれた瞳は、陽の光を帯びてきらきらと輝いていた。
「ええ。
 あとはこれを届けるだけです」
 書簡を、器用に巻く。
 カランという音が、房の中で響いた。

「じゃあ、一緒に行ってあげるわ」

 軽やかに立った少女が、にこりと笑う。
「いいんですか?」
「嫌なら遠慮するけど?」
 反対に訊き返されて、少年は首を横に振った。
「いえ、嬉しいです」

 鍛錬場で待っているのではなく、一緒に来てくれる。
 少しでも長い時間、傍にいられる。
 それだけのことが、嬉しくてたまらなかった。
「このくらいで嬉しいなんて、変な陸遜」
 不思議そうに首を傾げる少女に、返す言葉は一つしかなかった。
「そうかもしれませんね」
「まあいいわ。
 早く行きましょう!」

 太陽のように、大輪の花のように。
 綺麗で愛らしくて、温かい笑顔。
 その表情に、陸遜はただ頷くことしか出来なかった。




 いつまでも、どこまでも。
 臣下としてで構わない。
 彼女をずっと、守っていきたい。
 この笑顔だけは、ずっと――。
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