初恋

 立春が過ぎ、季節は春めいた色に近づいていた。
 一歩、また一歩と進んでいく。
 植物は芽を息吹かせ、大地を包み込もうとする。
 風も、陽の光もどことなく儚くて淡い。
 
 そんな中、一人の少年は木陰で竹簡を読んでいた。
 少し前に孫呉に仕官した弱冠の少年、陸伯言。
 押し付けられたものではなく、自ら選んだ文献。
 手にしていた竹簡は兵法の基礎が書かれているものだった。
 

「陸遜」
 唐突にかけられた声に、少年は顔を上げる。
 こんなにも近くに寄られたのに気がつかなかった。
 少年は、自分の不甲斐なさに溜息をついた。
「姫様。
 何かご用ですか?」
 居住まいを正し、立ち上がろうとして遮られる。
 陸遜は眉をひそめるが、少女は気にする風もなかった。
 口元に笑みを讃えたまま、首を横に降るだけ。
 何となく、不愉快だと感じた。

「隣、座ってもいい?」
「どうぞ」
 短く答えると、尚香は礼を言った。
 彼女はそっと腰を降ろす。
 ふわりと風が起こり、微かな甘い香りがした。
「……」

 一体、彼女は何がしたいのだろうか?

 少年は心の中で呟く。
 目の前の少女は、あまりにも無防備だった。

 孫呉の至宝。
 その瞳は豊かさを表す色が宿り、口元には常に笑みが零れている。
 天真爛漫なその性格は、誰もが愛さずにはいられない。
 そう詠われる女性が今ここにいる。

 兄の臣下ではあるが、先代を恨んでいるかもしれない男。
 孫家に降ったとはいえ、まだ危険な人間。
 普通はそう考える。
 近くに寄って、得になることは何もないはずだ。
 もし自分が彼女に刃を向けたら。
 そういうことを考えないのだろうか?
 周囲に女官や護衛兵の気配はないように思える。
 多分、全部撒いて来たのだろう。
 少女は武芸にも秀でているというし。
 自分に自信があるためなのか。
 すぐ横の少女は本当に隣に座っているだけだった。

「何も訊かないのね」
 小さな声に、ハッとする。
 いつの間にか、翠の瞳はこちらを見つめていた。
「申し訳ありません。
 考え事をしておりました」
 綺麗な色の瞳のせいだろうか。
 陸遜は正直に答えてしまった。
「そう。
 ここにいたら迷惑?」
 首を傾げて尋ねられる。
 赤味がかった髪が、さらりと零れる。
 髪の揺れる透明な音が、耳に届いた。
 ただ問われただけ。
 それなのに、陸遜の心臓は音を立てる。
 居心地の悪い感覚が、体中に広がっていく。

「いえ。
 ただ……」
「ただ、何?」
 尚香の瞳を真っ直ぐに見られなかった。
 少年は視線を逸らして、うつむいた。
 先ほどまで思っていたことを、告げるだけ。
 簡単なことが、なぜか出来ない。
 当惑が胸の奥を支配する。
「その、何でもありません」
 ぽつりと呟く。
 もう、それ以上は言えなかった。

「ありがとう、陸遜」

 優しい声が聴こえる。
 今まで聴いたことなどなかった。
 これ程までに美しい音色を。
 まるで春風が花を揺らす時のように優しく、暖かい言葉だった。



 少年は顔を上げなかった。
 孫呉の若き軍師は、知っていたから。
 彼女の最上の笑みがそこにあることを――。
作品ページに戻る