一杯分の幸せ
孫呉にはお転婆な姫君がいた。裁縫や琴を弾くことを嫌い、男のように武芸を好んだ。
煌びやかな衣ではなく、軽装をまとい駿馬で野を駆け回った。
その天真ぶりに、姫君の兄でもある呉主・孫権はほとほと困っていた。
そんなある日、呉主の元に嬉しい報せが届いた。
悩みの種であったお転婆姫が、侍女にお茶の淹れ方を習い始めたという。
これでやっと、と孫権は大いに喜んだという。
薄暗い書斎の中で、少年は今日も竹簡とにらみ合っていた。
近々戦が始まる。
しかも、今回の指揮官は他でもない自分だ。
大きな戦になることは必須。
だからこそ、準備は万端にしておかなければならない。
椅子から立ち上がり、陸遜は山のように積まれた竹簡の中から一つを選ぶ。
兵法を紐解き、少しでも多くの知識を蓄えたかった。
少年は何度目かになる書き写しを始めようとした。
「陸遜、入るわよ」
夏の太陽のように眩しい声がした。
ふと振り返れば、目の前には孫呉の弓腰姫が立っていた。
「姫様、何か御用ですか?」
「用がなければここにいないわ。
お茶を淹れるから、休みましょう」
にこやかな笑顔を浮かべて、少女は中に入ってきた。
彼女は知っている。
孫呉の武将のほとんどが、少女の誘いを断らないことを。
「申し訳ありません。
今手が離せないのです」
少年はその誘いをはっきりと断った。
本当なら、その誘いを受けたい。
一杯のお茶を飲む時間だけでも、彼女を独占していたい。
でも、と陸遜は思う。
今は駄目なのだ。
「お茶一杯の相手をする暇もないくらい?」
「ええ、すみません」
言って、陸遜は尚香に背を向ける。
竹簡の山に向かい、選ぶ振りをする。
とにかく彼女に去って欲しかった。
ここにいられては、一文字だって頭に入らない。
だんだんと早くなっていく鼓動を抑えるので精一杯だ。
瞬間、体が傾いだ。
少年は思わず声を上げる。
「なっ……! 姫様!?」
突然腕をつかまれて、少年は驚きを隠せない。
「とにかく座って!
休まなきゃ駄目なんだから!!」
今にも泣きそうな声で訴えられ、陸遜は逆らえなくなった。
痛々しい声で叫ばれるのに弱い。
こう言われてしまえば、断ることが出来なくなる。
「……分かりました」
ため息混じりに頷くと、つかまれていた腕は解放された。
「良かった、ちょっと待っててね!」
嬉しそうに笑って、少女は部屋から出て行った。
その背を見送りながら陸遜は微笑む。
陸遜は椅子につくと、用意してあった筆や硯を脇によける。
そして、少女が帰ってくるのを待つことにした。
***
しばらくして、尚香は盆を持って現れた。
多少苦戦しながら、少女はお茶を淹れてくれた。
立ち上る湯気からは、ほのかに桂花が香る。
優しい香りに包まれて、陸遜は頬を緩ませる。
いびつに切り取られた桃は、彼女が懸命に用意してくれた証拠。
嬉しい事実に、陸遜は心からの笑みを浮かべた。
「ところで、どうして私のところに?」
お茶を飲みながら、少年は少女に尋ねた。
柔らかな味に、少し驚く。
尚香はこんなにもお茶を淹れるのが上手かっただろうか? と。
「陸遜にお茶をあげるためよ」
満足そうに笑っている少女を見て、少年は思い出した。
最近、お茶を淹れる練習を始めたというお転婆姫の噂を。
「練習台ですか?」
いつだったか、誰かが言っていた。
姫の練習台にされた、と。
多分、自分もそうなのだろう。
自分以外の誰かに淹れてあげるための、練習台。
それでも、と少年は思う。
それでも、こうして共に過ごせる時間が嬉しいと思った。
「ううん、本番よ」
「……今、何て?」
「これは練習じゃないわ。
本当に疲れてるのね、陸遜」
大丈夫? という問いかけに、はいとしか答えられなかった。
意外すぎる言葉に、戸惑ってしまう。
「最近、陸遜ずっと忙しかったでしょう?
だから、私に何か出来ないかなって考えたの。
ほら、お仕事のお手伝いは出来ないし。
それで、せめてお茶を淹れて一息ついてもらいたかったの」
「――姫さま」
うまく声を出すことが出来ない。
ちゃんと発音できているだろうか?
少女の心遣いが、言葉が。
嬉しくて仕方がない。
「大切な人が、苦しんでいる時。
何もしてあげられないなんて、悔しいじゃない?
……とにかく、休んで欲しかったの」
照れくさそうに笑う尚香を見て、陸遜も笑う。
申し訳ない気持ちと、くすぐったい感覚が同時に押し寄せてくる。
自分はこんなにも彼女を愛しいと思っている。
それなのに、気がついてやれなかった。
尚香の抱えた苦しみに、答えてあげることが出来なかった。
悔しいけれど、とても嬉しい。
彼女にとって自分が大切な存在だということが。
「ありがとうございます」
礼の言葉を述べると、尚香は笑う。
夏の太陽のようで、花のようで。
可愛らしいのに、大人みたいな振る舞いもする。
目を離すことが出来ない存在に、陸遜も微笑む。
「孫呉はね、お茶一杯飲む時間を惜しんだくらいで揺るがないわ。
父様や策兄様が築いてきたものは、そんな弱いものじゃない。
だから、次の戦だって負けるわけがないのよ」
「はい、ありがとうございます」
彼女が発した言葉を、一つ一つ噛みしめる。
そう、孫呉は強い。
先代たちが残したものは、強固な意志。
負けるわけがない。
尚香が言うなら間違いはないだろう。
いや、間違いにする訳にいかない。
必ず勝利をもたらす。
それが今、自分に課せられた使命。
「分かったならいいわ。
ちゃんと、休んでね」
一つ年上の少女は、諭すように言う。
「はい」
この微笑みを守るため。
この時間を守るため。
陸遜はしっかりと頷いた。
陸遜が初めて指揮した戦は、孫呉の大勝利に終わった。
その後、尚香が女らしくなったという話は、誰も聞くことはなかった。