尊敬してやまない、師とも呼べる存在が亡くなった。
 呂子明。
 享年、四十一歳であった。



「人の死には、慣れていた……と思っていました」
 真白な布に身を包んだ二人は、お気に入りの院子にいた。
 天気の良い時、ここの木陰は極上の休憩所となる。
 爽やかな風と陽だまりが気に入っていて、二人はよく足を運んでいた。
 そして、亡くなったあの人も。
 ここを教えたら、良い場所だと、笑って言ってくれた。
「それは絶対無理よ」
「そう、なのでしょうか?」
「ええ」
 はっきりと言い切る少女の表情は、いつになく寂しそうに笑みを作る。
 影というには薄く、空気というには濃いものが、少女にまとわりついている。
 自分の力では取り除いてやれないことを知っていたから、陸遜は軽く唇をかんだ。
「父の死も、部下の死も。
 乗り越えられたんです」
「うん」
「……だから、平気なはずだったんです」
 ぽつり、ぽつりと言葉をこぼす。
 返ってくる相づちは優しい旋律。
「陸遜」
 与えられた名が呼ばれる。
 孫呉に来たときに作られた名。
 尚香が知る、唯一つの名前。
「はい」
 発した返事は、予想していたよりも情けない声になる。
 自分の心は、思いのほか傷を負っていたらしい。
 翡翠よりも新緑よりも。
 ずっと美しい瞳に、陸遜は視線を合わせる。

「泣けないの?」

 少女は何でもないことのように問いかけてきた。
 さも、当たり前だというように。
「…………どうして、分かってしまったんですか?」
 抱いた疑問をそのままぶつけてしまう。
 心を。
 言葉を。
 繕うことが出来ないほど、陸遜は弱っていた。

 なぜか泣けない。
 泣けないから、乗り越えられそうにない。
 悲しくないのではない。
 辛くない訳でもない。
 苦しくて、苦しくて。
 今すぐにでも泣き出してしまいたい。
 子どものように、形振り構わず声を上げてしまいたい。
 早く、楽になりたかった。

 それが出来ないのは、悲しみが大きすぎるから。
 心が、重い感情に耐えられなかったから。

 そこまで考えて、陸遜は失態に気がついた。
 彼女は知っていたのだ。
 味わっているから、分かったのだ。
 乗り越えられない。
 その本当の意味を。
「本当に悲しいと、人は泣けないのよ」
「――知りませんでした」
 経験論なのだろう。
 今、この瞬間。
 尚香の涙を見ていないことを、少年は思い出す。
 自分の浅はかな言動に、今度は強く唇をかむ。

 傷つけたくない。
 助けたい。
 力になりたい。
 それなのに、自分は彼女に何をした?
 後悔だけが胸のうちから生まれてくる。

「そのうち、泣けるといいわね」
 耳に届いた声に、はっと顔を上げる。
 浮かべられた表情は笑み。
 無理やり作られたそれは、痛々しく。
 ちくり、と胸に何かが刺さったような気さえした。
「ええ、そうですね」
 つられるように、少年も笑みを作る。
 口の中に広がった血の味は、複雑な思いが絡まった味だった。

 陸遜は一つだけ伝えなかった。
 貴女も、という言葉を。
 いつか。
 いつか自分が泣ける日が来たら、一緒に涙を流して欲しかったから。
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