はじまり

 “はじまり”は、いつも胸が痛む。 

 恐い……。

 一言で表すとすれば、その言葉しか見当たらない。
 人対人が傷付け合い、殺し合う戦場。
 昨日、今日と日が経つにつれ、死人もけが人も増える。
 それは、日常であって異常なことではない。

 ここに掟は無い。
 言葉も、心もいらない。
 ただ、刃を振り回すのみ。
 大喬は、一瞬身震いをする。
 夜の風が冷たいからではない。
 恐怖が体を凍えさせたのだ。


「よお、どうした?
 明日も早い。
 早く寝た方が良いぞ」 
 後ろから不意に声をかけられる。
 その声が誰のものだか分かったから、大喬は感情を隠さずに振り向いてしまった。
「孫策……さま」  
 最愛の夫を見つめる。  
 瞳には、自分の泣きそうな顔が映っている。  
  
 もしかしたら、これが最後になってしまうかもしれない。  
 明日には、自分か彼。  
 いや、二人とも命を落としてしまうかもしれない。  
 名を呼ぶことすら最後になるかもしれない。  
 戦の始まりは死への第一歩。  
 私たちはもう、その道を歩み始めている――。  
 勢いよく流れ始めた水を、せき止めることが出来ないように。  

 大喬は、俯く。  
 孫策の真摯な眼差しを見ていられなかったから。  

「……?!」

 黙りこんでいた自分を、彼が勢い良く引き寄せた。

「あ、あの……そんさく、さま?」

 突然の出来事に、先程の思考も止まってしまう。
 孫策の腕に力がこめられる。
 息が出来ないほど、きつく抱きしめられる。
 もう苦しいからなのか、恥ずかしいからなのか分からない。
 頬は熱を帯び、鼓動は早鐘を打つ。
 こんなにも、きつく抱きしめられたのは初めてだった。
  
「……いいか、俺は絶対に死なねぇ。
 だから、そんな顔するな。
 いいなっ……!」

 頭の上から声が降ってくる。
 いつもみたいな快活な声ではなく、苦しそうな声。
 何かを、押さえ込むような声だった。 

「はい」

 ただ一言、そう呟いた。
 しっかりと、言葉を紡ぐ。
 この人を、安心させたかったから。

「今はまだ、何も始まっちゃいねぇ。
 俺たち孫呉が天下をとってからだ。
 それからが始まりなんだ……」

 それはまるで、自分に言い聞かせているように聴こえた。
 小さい声。
 そこには、強い意志が込められていた。



 『はじまり』は始まらない。 
 まだ、もう少し先のこと。  
 今は、この腕を、温かさを感じていよう。     



 この夜、空には幾千幾万もの星が輝いていた。  
 煌めく星空の中、星が一つ流れていた。
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