おまじない

「ねえ、大喬」
 柱の影から孫呉の姫君、孫尚香が手招きをしていた。
「?
 何か御用ですか?」
 にこにこと笑っている尚香の元に駆け寄る。
「あのね、良いこと教えてあげる!」
 悪戯っぽい笑みを浮かべている彼女。
 大喬には、いつもと同じ明るい笑顔にしか見えなかった。
 

 それが、すべての始まりだった。



「え、えぇ!!
 そんなこと、出来ません!」

 珍しく回廊中に大喬の叫び声が響き渡る。
 通りすがりの人に振り向かれる。
 恥ずかしくて、俯いてしまう。
「ん〜、まあ気が向いたらってやつよ。
 一つの案だから」
「その、尚香様もなさったことあるんですか……?」
 何となく気になったので、聞いてみる。
 途端、尚香の顔が真っ赤になる。
「えっ!
 う、うんまあね!
 良かったら、大喬もやってみたら?
 じゃあね!」
 尚香はそのまま走っていってしまった。
「ど、どうしよう……」
 そんなことには構わずに、大喬は考え込んでいた。





 戦の始まる日。
 今日から夫である孫策をはじめとする武人は、戦場へと出発する。
 とはいっても、大きな戦ではなく、小競り合いの鎮圧。
 心配するほどのことではない。
 皆、そうはいっていてもこういう日はせわしないもの。
 大喬も、もちろんその一人だった。

「どうしよう……」
 俯き加減で当てもなく歩く。
 本当なら、そろそろ夫の見送りをしに行かなければならないのだが。
 考え事があって、何となく行きにくい。
 昨日の尚香の言葉が頭を離れない。

「よう、大喬。
 こんなとこにいたのか」
 上から声が降ってきた。
「そ、孫策さま!?」
 あわてて上を向く。
「どうした?
 顔が赤いぞ。
 熱でもあるのか?」

 孫策の手が額にふれる。
 いつもは温かい手が、今日は冷たい。
 顔が熱いことに気がつく。

「い、いえ、大丈夫です!
 孫策さまは、どうして?」
 首を横に振り、問いかける。
「お前の姿が見当たらなかったからな」

 夫は、何でもないことのように、にこっと笑った。
 その言葉にドキッとする。
 こういう彼の、何気ない行動が心臓を落ち着かせなくする。
 大喬は、辺りをきょろきょろと見る。
 誰も、いない。

「そ、孫策さま。
  お願いがあるんですけど……」
 もじもじしながら孫策を見つめる。
「あぁ、いいぜ」
 孫策は気前良く答える。
「かがんで、もらえますか?」
「そんなことでいいのか?」
 彼は、不思議そうに背をかがめる。

 顔が接近して、ドキドキが止まらない。
 心臓の音が聞かれたら、どうしよう。
 結婚して結構経っているのに、こういうのは慣れない。
 ほんの少し背伸びをして、そっと彼の頬に口づけをした。

「あのっ、無事に帰ってこれるおまじないだって……。
 尚香さまに教わって……」
 大喬は、しなくてもいいのに言い訳をする。
 恥ずかしくて、そのまま下を向く。
 鼓動は、早鐘を打ち続けている。

 
「……!?」
 

 自分の頬に何かがふれた。
 間違いでなければ、孫策から口づけをされた……みたいだ。
 

「俺がいない間、病気とかしないようにな。
 ……おまじない、だ」

 
 ぱっと孫策の方を見上げる。
 照れ隠しに、鼻の下をこする彼が目に入る。
 頬が赤くなっている。
 嬉しくて、大喬は孫策の大きな手をとった。

 
「孫策さま、無事に帰ってきてくださいね」

 
 大喬は意志の強い瞳を見つめる。

「あぁ、もちろんだ」

 

 ――孫策は、自ら背をかがめて、大喬の唇に口づけを落とした――
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