内に秘めた思い
孫堅が死んだ。黄祖の仕組んだ罠によって。
孫呉にとって、思いもよらない出来事だった。
誰もがその死を悼んだ。
けれど、一人の人物だけはその悲しみにくれることを許されなかった。
姓は孫、名は策。
字は伯符。
闊達な彼を、人々は小覇王と称した。
それから時は流れて。
孫策は破竹の勢いで江東を制定した。
誰よりも動き、誰よりも呉のためを思った。
その働きにより、孫呉は曹魏を脅かすほどの勢力となった。
そんな、ある日の夜だった。
孫策の書斎には灯りがともっていた。
「孫策様」
呼ばれて振り返ると、そこには可憐な少女が立っていた。
江東の双華のひとつ。
喬玄の娘、大喬。
月は光を消し、花も恥じらうと言われるほどの佳人。
と同時に、孫策の妻でもあった。
「おぅ、どうした」
孫策は竹簡を脇に置いた。
「これ、良かったら」
遠慮がちに出されたのは、茶と菓子だった。
夜も更けているというのに、孫策は何やら難しそうなものに目を通していた。
兵法ではなく、内政に関する文献であろう。
孫堅亡き今、孫策は全てをこなさなければいけなかった。
戦うだけではいけない。
父の後を継いだのだから。
大喬には、そんな夫の背を見守ることしかできなかった。
「悪いな!
おっ、旨そうだなこれ」
茶器からは温かな湯気が昇っている。
金色の茶に、美味しそうな菓子。
卓に置かれたそれを覗きながら言った。
「お疲れのご様子だったので」
大喬がにこりと笑う。
本当に花のようだと、孫策は思う。
「すまねぇな、お前にはいつも気、つかわしちまって」
茶器を手に取り、それを少し口に運ぶ。
桂花の香りが口の中に広がる。
喉を通り、体の芯まで温まるような気がした。
自分の体が思いのほか冷えていたことに気がつく。
「いえ、孫策様の妻ですから」
「ははっ。
ありがとな」
読むのを中断し、孫策は体を伸ばした。
「ん〜、少し休むか」
反らした感じが心地良い。
きっと、大喬が来てくれなかったら気がつかなかっただろう。
「孫策様」
名を呼ばれて、孫策は彼女を見た。
黒に近い瞳の色と出会う。
優しい、眼差し。
「何だ?」
「泣いても、いいんですよ」
微笑んだままの少女。
その口から出た言葉は意外なものだった。
「!?」
「ずっと、無理なさっているじゃないですか」
「そ、そんなことないぜ。
俺はいつだって元気だからな!」
心の中を見透かされた。
孫策は慌てて否定したのだが、動揺は隠し切れず、変なことを言ってしまった。
「私の前でくらい、素直になって欲しいって思うのは贅沢ですか?」
寂しげに首を傾げるその姿が愛おしい。
「大喬……」
「少しくらい、頼ってくれませんか?」
微かな笑みが心の中に染み渡る。
「……敵わなねぇな」
ぼそっと呟く。
本心を、包み隠さず。
「ふふっ。
そうですか?」
「ああ。
一生大喬には敵わない、な」
ニカッと笑おうとして、それに失敗した。
何か、熱いものがこみあげてくる。
「褒め言葉として、とっておきます」
手に小さな手が重なった。
愛らしい手が。
「そう、してくれ」
抑えることは出来ず、熱いものは溢れてきた。
もう、愛しい妻の輪郭をとらえることが出来ない。
瞳が潤んでしまったから。
それは、自分は一人ではないと気がついた夜だった。