髪結い
ある良く晴れた日の昼下がり。春を謳歌する庭園を横目に、少女は回廊を歩いていた。
戦と戦の合間。
平和だ、と言ってみたくなる。
そんな暖かな日だった。
「大喬!」
後ろから声をかけられて、大喬は振り向く。
一番呼ばれたいと願っている声に呼ばれたことが嬉しくて、
「孫策さま」
自然と顔がほころんだ。
心をこめて、少女は夫の名を音にする。
忙しい人だから。
すぐ傍で声を聞けるのも、姿を見られるのも嬉しくて仕方がない。
精悍な顔立ち。
自分よりもだいぶ高い背。
楽しそうに笑う声。
大喬にとっては全てが眩しい存在だった。
「お仕事は大丈夫なんですか?」
青年はすぐ目の前まで来た夫に問う。
「ああ、ちょっと休憩だ。
周瑜にはちゃんと言ってあるぜ」
悪戯っぽく笑う孫策に、少女も微笑む。
何気ない会話が楽しいと感じる。
今が動乱の世だということを忘れてしまいそうになる。
「ん?」
何かを見つけたのか青年がスッとかがむ。
視線の高さが同じくらいになる。
一瞬、鼓動が跳ねた。
「髪、ほどけてるぜ」
結んでいた髪に、男らしい指が触れる。
優しい声が耳のすぐ近くで聞こえる。
「え? あ、本当ですね」
青年の手と変わるように、自分の髪に触れる。
結んでいた紐は今、頼りなく絡まっているだけだった。
きつく編んでいたはずなのに……。
大喬はしゅんと、うな垂れる。
出来るなら、孫策には綺麗な姿だけを見ていて欲しい。
あまり、みっともない姿は見せたくなかった。
「貸してみろよ」
武器を持つ逞しい手がすい、と紐を持っていく。
抗うことはできず、最後の束縛から逃れた髪がはらはらと零れていく。
「孫策さま?」
驚いて青年を見上げると、満面の笑みが存在していた。
「俺、こういうの結構得意なんだぜ」
とくん、と鼓動が跳ねる。
真っ直ぐな笑顔に、目を合わすことが出来ない。
早くなっていく心臓の音を悟られないように。
少女はただ、必死に願う。
「ちょっとごめんな」
大喬の気持ちを知ってか知らずか。
孫策が髪に触れる。
一つ、二つと編んでいく手が頬に掠りそうになる。
大きくて温かい手。
この世界中で誰よりも何よりも大好きな手。
ずっと触れていて欲しいと願う手が、今だけは恨めしい。
早く離れて欲しいと、いつもとは逆のことを考えてしまう。
「ほら、出来た」
手が離れる。
少しずつ心が落ち着いていくのを感じて、少女はほっとする。
そっと髪に触れると、乱れていた髪は綺麗に元通りになっていた。
まるで何事もなかったかのように、思えた。
「ありがとうございます、孫策さま」
意外な夫の一面に、大喬は素直に感謝する。
「これでもう大丈夫だぜ」
ぽん、と孫策の手が頭にのる。
あやすように撫でる手は、どこまでも優しい。
温かくて、やっぱり一番大好きな手だと思った。
「でも意外です。
こういうのは苦手だと思っていました」
くすくす、と笑うと孫策は照れくさそうに言う。
「あー、昔良く尚香のやってやったんだ。
ホラあいつ、良く動くだろ?
だからよく解けて大変だったんだぜ」
あいつらしいよな、と青年が笑う。
自分の知らない時間。
知ることの出来ない時間。
妬いても仕方のないことなのに、妹姫がほんの少し羨ましかった。
「あ、あの、孫策さま」
「おう」
機嫌よく返事をする夫。
いつだって優しくて。
いつだって頼もしくて。
誰よりも、いつまでも。
自分だけの孫策さまでいて欲しい。
我がままだって知っている。
叶うわけがないことも知っている。
それでも、それでも……。
嘘でもいいから、「応」と言って欲しかった。
「その……これからは、私だけだと嬉しい、です」
やっとのことで言えたのは、そんな曖昧な言葉。
私だけがいい。
私だけにして欲しい。
髪に触れるのも、結ぶのも。
他の誰にも渡したくはないと、大喬は身勝手なことを思った。
「大喬」
青年の声が降ってくる、と同時に強い力に引き寄せられた。
「お前も、そういう顔は俺だけの前にしてくれよな?」
すっぽりと入ってしまった腕の中。
耳元で囁かれた言葉に、少女の鼓動は勢い良く早まっていく。
「……はい」
真摯な願いに、大喬はこくりと頷いた。
ある晴れた春の日。
青年と少女は小さな誓いを立てる。
幼い我がままは願いとなり、約束へと昇華したのだった。