大地讃頌
讃えよ、誉めよ


 早く着きすぎた学校ってのは、誰もいないもんだ。
 放課後は、まだ人の気配がする。
 早朝は、白い光が窓から差し込んで、妙に爽やかで、無機質だ。
 そんなことを実感しながら、眠い目をこすりながら野村亮太は廊下を歩いていた。
 教室の自分の席でぼんやりしているのも芸がない。
 もしかして、知り合いの一人くらい見つかるかもしれない。
 そうは思うものの、人っ子一人いない。
 亮太はあくびをかみ殺す。
 席に帰って、眠ろうか。
 回転が鈍い頭で亮太が考え込んでいると、声が聞こえてきた。

 女子の歌声だ。
 合唱部か? 音楽科の声楽か?

 亮太は足音を立てないように気をつけながら、歌声をたどっていく。
 どうやら、音楽科ではないらしい。
 途切れ途切れの歌は、日本語っぽいからだ。
 早朝に歌を練習する少女。
 できたら「美」がつけば話のネタにもなると言うもの。
 まあ、そこそこの子でも、とりえの一つでもあれば、文句なしだ。
 自分自身がそんなに優れた人間じゃないから、他人の評価も甘くしなければ、自分の立つ瀬がなくなってしまう。
 
 人の子ら その立つ 土に感謝せよ

 大地讃頌だ。
 合唱部でもないな。
 歌をたいして知らない亮太でも知っている曲だった。
 卒業シーズンともなれば、この曲の練習をするものだ。
 中学でも練習させられた。
 テノールと言うほど高くなく、バスと言うほど低くもない声だから、合唱には苦労させられている(現在進行形)。
 どうして、高校まで来て「音楽」なんて芸術選択したんだろう……。
 作品提出する「書道」や「美術」よりも楽そうだと考えが、甘かったんだろうな。

 とりとめのないことを考えながら、そっと教室のドアをのぞく。
 そっと、教室のドアを開く。
 その隙間から、声が響く。

 平和な大地よ 静かな大地よ

 アルトパートらしい。
 主旋律とは違う、単調な音の続き。
 低音って、損だよなぁ。
 音が不安定だし、すぐつられるし、目立たないし。
 良いところないよな。

 大地を褒めよ 讃えよ 土を

 ドアの隙間から、熱唱している『アルトの君』を覗いてみる。
 趣味で歌うのにどうして「大地讃頌」なのか気になる。
 ほこりが舞うのが見えるくらい白い朝の光を受けて、気持ち良さそうに少女が歌っていた。
 いっちゃなんだが、地味そうな。
 学級委員とかしてそうな、目立たない子だ。
 妙に縁の眼鏡が似合っているし、校則違反していない制服も似合っていた。
 ちぐはぐな印象だ。
 ああでも、こういう子のことを『清楚』と言うんだろうか。
 友人の好みに合いそうだ。

 讃えよ 土を

 歌はクライマックスを迎えて、『アルトの君』も地味ながら最高潮を迎える。
 本当に低音って、単調だよな。
 亮太は同情した。
 これがソプラノならもっと……華やかなんだろうな。

 母なる大地を 讃えよ大地を

 歌が終わった。
 『アルトの君』の満足そうな顔を見ると、同情は無駄みたいだった。
 彼女はきっと『アルト』だからって、損していると思ってないんだろう。
 歌うことが好きなんだろう。
 こんな朝っぱらから大地讃頌を歌うんだから、すごい好きなんだろう。
 亮太は納得しかけて、教室に戻ろうとした。
 

 ズルッ ガタンッ!


 いつの時代にも、手違いと言うのはあるものだ。
 お約束展開が、永久に廃れないように。
 亮太は思いっきりこけた。
 しかも、教室のドアは大きく開いた。
 神様って、忙しいから手が回らないんだな。
 亮太は、したたかにぶつけた膝の痛みに耐えながら、言い訳の言葉を考える。

「おはよう」

 間抜けにも亮太はヘラッと笑顔を浮かべて、顔を上げた。
 これじゃあ、不審人物だ。
 しかも、ストーカー法に引っかかりかねないぐらい怪しい。
 自分自身がネタになってどうする?
 虚しくつっこみなんかも入れてしまう。

「おはよう」

 『アルトの君』は、驚きながらも言った。
 相手が警戒しているのが、痛いほど良くわかる。
 めちゃくちゃぶしつけに見られている上に、身を引かれている。
 そりゃそうだろう。
 当たり前だ。
 自分は、怪しすぎる。
 自分でもそう思うんだから、他人から見ればどれぐらい怪しいか……。
 やめておこう、考えるのは。
 落ち込みの無限ループにはまり込む。
 亮太はへらへらと笑いながら、立ち上がる。
「歌好きなんだね。
 ちょっと、聞こえてきたから。
 のぞいちゃってゴメン」
 亮太はできるだけ軽く言う。
 『アルトの君』は持っていた譜面で顔を隠した。
 ちょっと、その仕草が好みかも。
 亮太は謝っている最中なのに、そんなことを思った。
「オレ、8組の野村。
 ゴメンね、邪魔しちゃって。
 良い声だね」
 バクバクする心臓を意識しないように亮太は言った。
 ここで軽い男と認識されれば、ストーカー呼ばわりはされまい。
 必死になって友人のマネをする。
「じゃあ」
 ちょっと、カッコつけるぐらいにして、亮太は教室のドアを閉める。

「ありがとう」

 小さな声のお礼。
 アルトだけあって、ちょっと女の子にしては低い。
 小さい背に、不釣合いな艶のある声だった。
 振り返るつもりもなかったのに、亮太は振り返ってしまった。

「また、来ても良い?」

 言うつもりもなかったのに、言ってしまった。
 後悔先に立たず。
 覆水盆にかえらず。
 ……マジ、不審人物だ。
 亮太は、自分にげんなりしてしまった。
 『アルトの君』は譜面で顔を隠したまま、コクンとうなずいた。
 その仕草が、可愛かった。
 めちゃくちゃ、好みだったんだ。

「よっしゃーっ!」

 訳のわからない叫び声を上げて、亮太は廊下を走った。
 すれ違った生徒たちに、不審な目で見られてしまったが、亮太は気にしなかった。

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