ピアノ
 生徒会室をノックする音に気がついたのは、三年生の早川綺月だった。
 書記の綺月はレース編みをし続ける、その手を止めるをことはなかった。
 抑揚に乏しい声で、同じ生徒会役員メンバーの樋口華蓮に声をかけるにとどまる。
「華蓮、お客さんみたいだよ」
「この時期に?」
 華蓮は片耳からイヤホンを外して椅子から立ち上がった。
 新入生歓迎会もすみ、それぞれが一年生を部活動を誘う時期である。
 生徒会室にやってくるような人物は少数だった。
「たぶん、例の子だと思うよ」
 綺月は言った。
 微かに笑っているところを見ると、状況を楽しんでいるようだ。
 華蓮はためいきをついて、生徒会室のドアを開けた。
 案の定、話題の人物がいた。
 長身の部類に入る華蓮から見れば30センチ近く身長差のある少女が立っていた。
「こんにちは、華蓮先輩」
 北条柚香はにっこりと笑った。
 ネクタイの色はクリムゾン。
 新一年生だ。                   
 副会長の北条夜来の従妹であり、北条グループの本家筋のたった一人の娘だった。
「夜来ならいないぞ」
 華蓮は言った。
「華蓮先輩、本当?」
 柚香の大きな瞳はキラキラと輝く。
「夜来に会いに来たんじゃないのか?
 とりあえず、中に入れ」
 華蓮はドアを開くと、慣れた調子で柚香は入ってくる。
 きっちりと生徒会室の鍵をかける。
「華蓮先輩って風紀委員長なんでしょ。
 あっちこっちの教室を鍵をかけるのがお仕事って聞いたの。
 だから、華蓮先輩なら知っているかなって」
 柚香はちょこんと空いている椅子を腰をかける。
「音楽科の空き練習室に、放課後になるとピアノが自動的に鳴るって怪談話。
 夜来にーちゃんは危ないから近寄るなって言っていて。
 琳ちゃんも学園七不思議って言ってたの。
 でも、芽生ちゃんは、とっても綺麗なピアノだって言ってたの。
 だから聞いてみたくって」
 柚香はニコニコと無邪気に笑う。
「芽生の言うことは本当だよ」
 綺月が余計なことを言い出した。
 一年生の高尾芽生と早川綺月は家族ぐるみの付き合いのある幼なじみであり、綺月にとってみれば長年の片思いの相手だったからだ。
 今、編んでいるレース編みも完成したら、高尾芽生のショールになるだろう。
 中等部時代からの付き合いだけに、華蓮は内心でためいきをついた。
「百聞に一見にしかず。
 華蓮、施錠に連れて行ってあげなよ」
 綺月は言った。
 完全に面白がっている。
「後で夜来から文句をつけられたら、連帯責任をとらせるぞ」
 華蓮は言った。
「ギブ&テイクだよ。
 お世話になっているんだから、少しぐらい恩返しをしたら?」
 気にした風ではなく綺月は提案する。
「お世話?」
 不思議そうに柚香は小首をかしげる。
「こっちの話だ」
 華蓮はイヤホンを外し、MP3プレイヤーを止める。
 生徒会室の個人的なロッカーを開けると、濃紺の制服のジャケットを取り出す。
 緩めていたモスグリーンのネクタイを首元まで閉める。
 ジャケットのボタンをすべてはめると、『風紀委員長』という腕章をピンで止める。
 これで、どこからどう見ても品行方正な生徒会役員に見えるだろう。
 風紀委員長という肩書にふさわしく。
 MP3プレイヤーは生徒会室のテーブルの上に置いていく。
「他のメンバーが来たら、施錠に行ったことを伝えておくよ」
 綺月は言った。
「悪いな」
 華蓮はとりあえず感謝の言葉を告げた。
「ほら、行くぞ」
 椅子に座ったままの柚香に声をかけた。
「華蓮先輩、お仕事に連れて行ってくれるの?」
 嬉しそうに柚香は立ち上げる。
 二つ分けにした髪が揺れる。
「面白いことはないぞ」
 華蓮は念を押して、歩き出す。
「大丈夫。ピアノが楽しみだから」
 小柄な少女は楽し気に言った。
 職員室に立ち寄って鍵の束を受け取ると、一つずつ施錠をしていく。
 二年次に風紀委員長を任命されてから、毎日くりかえしてきた放課後だった。
 生徒会役員がこの仕事を引き受けることになったのは、空き教室での不純異性交遊を防ぐためだった。
 キス程度の可愛らしいものだったら黙殺される程度には自由な校風ではあったが、それ以上の事件が起きたのだった。
 幼稚園舎から大学部まである、私立明智学院にとっても、もみ消せないほどの醜聞だった。
 いわゆる上流階級で爛れた生活に慣れ親しんだ良家の子女が、高等部から進学した優秀な真面目な生徒を食い物にしたのだった。
 華蓮はためいきを一つつくと、音楽科の空き練習室を開く。
 ここに先客がいたためしはない。
 数年前に卒業した先輩がこよなく愛した練習室だったらしいが、話題が話題だけに音楽科の生徒すら近寄らない場所だった。
 ジンクスにあやかって女子生徒が練習室のドアの前に立っていても、すぐさま去っていく。
「華蓮先輩、ピアノの音がしないね」
 柚香は空き教室の部屋の中央で不思議そうに言った。
 窓の外は見事な夕暮れ。
 生徒会役員の二年生の畠山楽瑠の言葉を借りるのならば、明智学院高等部で、世界で一番美しい終焉が観られる場所だ。
 華蓮は後ろ手で練習室の鍵を閉めた。
 置かれているグランドピアノの蓋を開ける。
 椅子に座ると、埃よけの布を取り払う。
 白鍵と黒鍵が秩序よく並んでいる。
「お前、何が好きだ?」
 華蓮が尋ねる。
 柚香はきょとんとする。
「怪談の正体だ」
「え?」
 柚香はまじまじとグランドピアノを見つめる。
 意味がわかっていないのだろう。
 高等部から進学した一年生であれば当然の話だろう。
 かろうじて二年、三年あたりが知っていて、面白半分に脚色して、一年生に吹きこんでいる最中だろう。
 華蓮は慣れた調子でピアノの鍵盤を叩いていく。
 曲目にこだわりがあるわけではない。
 身近な曲が良いだろうとシューベルトの『野ばら』を選んだだけだった。
 風紀委員長が施錠がてらにピアノを一曲、弾いていく。
 それが怪談の正体だった。
 いつもだったら、それでおしまいだった。
 華蓮の曲に合わせるように、硝子のように繊細なソプラノの声が乗った。
 滑らかな発音でゲーテが書いたドイツ語の詩を歌う。
 華蓮が鍵盤から手を離すと、歌が止まった。
 見やると、柚香が明からに後悔をしたような顔をして突っ立っていた。
「華蓮先輩の邪魔をする気はなかったんです!
 つい歌っちゃって、ごめんなさい!」
 柚香はぺこりとお辞儀をする。
「どうして普通科にしたんだ?
 声量は足りないかもしれないが、音楽科でも充分にやっていけるだろう」
「え? みんなに外で歌うなって言われていて。
 夜来にーちゃん以外にも、お兄ちゃんや弟も言うし。
 それだけじゃなくて、親戚のみんなに言わられるぐらいなんですよ!
 音痴だからやめなさいって!」
 柚香は必死に言う。
 北条グループの本家筋のたった一人娘。
 それだけでも、十二分に政略の駒にふさわしい。
 そこに付加価値がついたら、良家の子弟だけでなく、高望みを夢見る男子生徒が増えるだろう。
「俺はお前の声が気に入った。
 幸い、怪談話が増えるだけだろう。
 歌いたいなら付き合ってやる」
 華蓮は言った。
「いいんですか?
 華蓮先輩は優しいんですね」
 柚香は嬉しそうに笑った。
 おそらく本人は知らされていないが、高校三年間しか猶予がないのだろう。
 で、なければ安在グループが理事長を務める明智学院に通えるはずがない。
 ライバルというほどではないが、それなりに社交の場では顔を合わせる相手だ。
 華蓮は内心でためいきをついた。
 ただでさえ夜来と知り合ったのは厄介ごとだったのに、おまけまでついてくるとは思わなかった。
「ところで、綺月先輩の言っていたお世話ってなんですか?
 私の方が一方的にお世話になってるような気がするんですけど?
 夜来にーちゃんも、華蓮先輩だけには近づくなって言うし」
 柚香は不思議そうに尋ねる。
 華蓮は鍵盤に視線を戻す。
「俺が死神だからだろう」
 華蓮は自嘲気味に言う。
 両親の希望もあって、中等部から入学したものの、話題が付きまとう。
「俺の周りでは殺傷沙汰が日常茶飯事だ。
 一番、派手だったのは屋上から女子生徒が飛び降り自殺を決行したことだな。
 生命に別状はなかったが、そのまま転校していった」
 華蓮は言った。
 どうにもこうにも女子生徒を追い詰めてしまうらしい。
 付き合うつもりはない、と振ったところで、それぐらいなら死ぬと縋りつかれる。
 特定の女子生徒と付き合っていても、二番目でもかまわないと言われる始末だ。
 生徒会役員に特定のファンクラブができるのは珍しいことではなかったし、それなりに広く浅い付き合いをしても咎められない。
 例えば夜来や楽瑠のように、女子生徒の間に渡り歩いても問題にはならない。 
「その人、とっても華蓮先輩が好きだったんですね。
 忘れて欲しくないぐらいに」
 柚香は明るい声で言う。
「お前、幸せだろう」
 華蓮は柚香を見た。
 小柄な少女はきょとんとしていた。
 それから、とても嬉しそうに笑う。
「幸せですよ!
 今までずっとやっちゃダメって言われることがたくさんありました。
 夜来にーちゃんでも言うんです。
 でも、華蓮先輩はそんなことを言わないです。
 華蓮先輩に会えて、嬉しいです」 
 当たり前のように柚香は言う。
 華蓮は静かにグランドピアノを元に戻す。
 それから立ち上がる。
「ここで施錠は最後だ。
 そろそろ帰宅しないと夜来に怒られるぞ」
 華蓮は言うと、歩き出す。
 その後ろを軽い足音が近づいてくる。
 閉め切っていたドアを開けて、廊下に出る。
 綺月の言葉ではないがギブ&テイクを受けている。
 二つ年下の小柄な少女から懐かれて、誰も彼もが華蓮のことを遠巻きに見るようになった。
 北条グループの名は大きすぎる。
 幼稚園舎から上がってくるような女子生徒は、近寄ってこなくなった。
 北条夜来が溺愛している従妹という存在というだけで、夜来から嫌われるのが怖くて、近づいてくるような一般の女子生徒も減った。
 おかげさまで、日常茶飯事だった殺傷沙汰がなくなった。
 高等部の卒業まであと一年。
 父親のように大学部に進学するのだろう。
 両親のように自由になれるのだろうか。
 何も知らない無邪気な少女を利用していることに、罪悪感を覚えるのも確かだった。


   ◇◆◇◆◇


 電車を乗り継いで、徒歩でさらに時間をかけてると『樋口』と表札のかかった戸建ての家にたどりつく。
 この辺りでは平均的な家だろう。
 華蓮はいつも通りに玄関のドアを開ける。
 鍵がかかっているためしがないのが、この家らしい。
 近所が顔見知りという治安の悪くない、片田舎というのも拍車をかけるのだろう。
「ただいま」
 華蓮は声をかけるが返事が返ってくるのは稀だった。
 父親が帰ってくるのはもっと遅い時間だったし、母親が台所にこもっているとうっかりと息子の帰宅時間を忘れるからだった。
 華蓮は気にせずにピアノが置かれている部屋に向かう。
 あるのはアップライトのピアノだ。
 適当に楽譜を取り出すと、並べて弾き始める。
 暗譜はできているが、何となく並べてしまう。
 毎日、練習をしていなければ指は動きを忘れてしまう。
 音楽で身を立てたいわけではないが、それなりに親しんだものだ。
 弾いている間はそれに集中ができるという利点の方が大きかった。
 まだ17年しか生きていないが、煩わしいことが多すぎる。
 最後の一音を弾ききると、拍手が起きた。
「今日は楽しいことがあったみたいだね」
 穏やかに声をかけられた。
 父親の樋口海だった。
「いつも通りだった」
 華蓮は鍵盤を見つめながら答えた。
「実は義父さんからピアノを調律したから弾きに来てくれと頼まれたんだよ。
 弾き主がいないピアノは可哀そうだろう?」
 海は言った。
「母さんが弾きに行けばいいんじゃないか?」
 華蓮の声を固くなる。
「繭さん、あまりピアノが好きじゃないみたいだから」
 海は困ったように言う。
 ピアノが嫌いだったら、わざわざ息子にピアノを教えないだろう。
 華蓮がピアノ教室に通う前から、ずっと弾き続けていたのだから。
 そして、わざわざ一介の会社員の父親がアップライトとはいえ、ピアノを用意するはずもない。
 定期的に揃えられる新しい楽譜。
 物心がつく前から、この家にはピアノの音があふれていた。
「蘭さんも会いたがってみたいだから」
 海は言う。
 安在蘭。
 安在グループの中でも微妙な立ち位置にいる妙齢の美女だった。
 一応のところ華蓮の義理の叔母にあたる。
 蘭が高校に上がると同時に、引き取られたといういわくつきの美女だった。
 華蓮にとって祖父にあたる安在グループの総帥の蘭は愛人の一人ではないか。
 そう言われてもおかしくないぐらい妖艶な美女だった。
 樋口華蓮が中等部からとはいえ、明智学院に通う羽目になった元凶の一つだった。
「俺は父さんみたいに、大学部を卒業したら、ごく普通の会社員になりたいんだ。
 そして駆け落ちしてもかまわないと思うぐらいに愛する女性と結婚したいんだ」
 華蓮は父親を見やる。
「あ、あれは駆け落ちじゃなくて、家出の手伝いだよ。
 繭さんは、そんなつもりじゃなかったし。
 実際のところ、な、何もなかったんだよ」
 海は困惑するように言った。
「一月以上、一緒にいたのに?」
 華蓮は揶揄うように父親を見つめる。
 嘘をつけるような父親ではないと知っていたが、社交の場では違ったようだった。
 安在グループの総帥の愛娘が、家庭教師としてつけられた一人と駆け落ちをした。
 明智学院は生粋の金持ちが揃うが、高等部から進学してくるような人材は違う。
 公立の高校に通うよりも学費が安く、義務教育以上に手厚いフォローがある上に、優秀であれば授業料は免除される。
 苦学生であった父親が選んだのは当然の帰結であり、不自然さも感じずに大学部へと進学した。
 生真面目な父親はモラトリアムの時代だというのに、勉強に打ち込んでいた。
 そこに舞い込んできた多額のバイト料。
 もちろん素行調査をされた上での数学の家庭教師だった。
「その後、就職した後、母さんに正式にプロポーズしたんだろう?」
 華蓮は微笑をした。
「まさか義父さんが許してくれるとは思わなかったんだ。
 それに繭さんだって、結婚をしてくれるとは思わなかった。
 気持ちだけは伝えたかったら、プロポーズというよりはただの告白だったよ」
 海は困ったように笑う。
「母さんは感動的なプロポーズだって言ってただけどな」
 華蓮はピアノの蓋を閉じる。
 静かに閉めたはずなのに、パタンっと音が立つ。
 毎日、聞き続けている音が鳴る。
「それでピアノを弾きに行く気にはなれたかい?」
「俺が断ったら、父さんの立場が悪くなるんだろう?」
 華蓮は楽譜を片付ける。
 無意識とはいえ歌劇で使われる曲目を選んでいたらしい。
 これでは、楽しいことがあった、と指摘されてもおかしくないだろう。
「華蓮が嫌なら断ってもいいんだよ」
 どこまでも優しい父親は言う。
「今度の日曜日は生徒会の仕事もないから、弾きに行くよ。
 ただし迎えはいらない。
 俺は安在の血を引くけど、樋口華蓮なのだから」
 華蓮は椅子から立ち上がった。
 父親は複雑そうな顔をした。
 

   ◇◆◇◆◇


 日曜日。
 安在グループの総帥の邸宅は古き良き時代を思い起こさせるような見事なまでの日本家屋。
 華蓮が正面玄関から入ると、待ち構えていた召使たちは一様に頭を下げる。
 いちいち仰々しいのは、跡取り息子である叔父が失踪したからだろう。
 一番、血が近いのが華蓮である、という事実だ。
 いつしか安在グループを引き継ぐ。
 そう思われている。
 期待をかけられていることも知っている。
 祖父とは顔を合わせたくないし、それ以上に蘭とも顔を合わせたくない。
 だから叔父が好んでいた洋風の離れへと直接、向かう。
 いくつかの部屋を通り過ぎると、陽光を自然に取り入れたグランドピアノだけが置いてある防音室にたどりつく。
 生まれ落ちた時から安在グループの総帥になるために、帝王学を叩きこまれていた歳の近い叔父の唯一の道楽だった。
 明智学院高等部の卒業式と同時に、叔父は失踪した。
 クレジットカードどころか、現金すら持ち出さずに、忽然と消えたのだ。
 そういうところは血筋なのだろうか。
 現在も安在グループが秘密裏に捜索中だというのに、叔父は見つからない。
 綺麗に消えてみせたのだ。
 もちろん、跡を継ぐのが嫌になった、そんな単純な理由ではないだろう。
 毎月のようにくりかえしている儀式のように、ピアノの前に座る。
 楽譜はすでに用意されていた。
 もう何度目だろうか。
 叔父の身代わりのようにピアノを弾くのは。
 ピアノなんて、叩けば音が出る。
 そんな情緒もないことを平然と言ってのけたのは一学年下の生徒会役員の会計の緒方和歩だ。
 絶対音感の持ち主で、国際的に活躍できるほどの腕前のピアノの能力を持っている。
 当人はそんなつもりはないらしく、普通科の理系進学コースに在籍している。
 授業中は寝ていることの方が多いのに、高等部から入学以来、一度たりとも主席の座を渡したことがない。
 どの教科であっても、一つもミスがなく、満点しか取ったことがない。
 たまに追試を受ける時もあるが、眠かった、という理由で白紙答案を出した時だけだ。
 暇さえられば本を読んでいるという重度な活字中毒者が文系進学コースを選ばなかった理由は一つだけだ。
 羨ましくなるほどの執着心だった。
 華蓮は微苦笑しながら、譜面を見る。
 ベートヴェンの『エリーゼのために』だった。
 叔父が好んで弾いていた曲だった。
 無意識の選択だったのだろう。
 どんな楽譜を用意されも、最後にはこの曲を弾いていた。
 暗譜できるほど弾きこんでいたのに、律儀に楽譜を用意していた。
 誰のために弾いていたのか、わかりやすいぐらいに弾いていた。
 華蓮は間近で見ていただけに、ためいきが深くなる。
 恋というものは、ままならないものなのだろう。
 華蓮は白鍵に指を置いて、弾き始めた。
 観客すらいない、たった一人の部屋で。
 防音室だというのに、一部の窓は開かれている。
 どうせ防音室の近くで観客がたたずんでいるのだろう。
 どんな想いで、観客は叔父の演奏を聴いていたのだろうか。
 一月に一度、わざわざ調律までさせて、華蓮をグランドピアノの前に座らせるのだろうか。
 最後の一音が宙に溶けていった。
 余韻が心地よい。
 目を閉じて、音の響きを味わう。
 安在グループの総帥が跡取り息子のために用意したグランドピアノは一級品だ。
 調律した直後であれば、なおさらだ。
 ここまで美しく響く名品は世界を探しても少ないだろう。
 録音できないのが悔やまれる。
 叔父ほどの腕前がないのだから無駄に近い行動だろうが、それでも残しておきたいと思わせる音だった。
 技量ではない。
 それぐらいなら追いついているだろし、緒方和歩の方が上だろう。
 熱量の差だ。
 華蓮は自分のためにしか弾いたことがない。
 誰かに想いが届いてほしい、と思って弾いたことがない。
 その差だった。
 華蓮は目を開いて、立ち上がった。
 これで義務は果たした。
 また来月には呼ばれるのだろう。
 叔父が見つかる間は続くのだろう。
 理解はしていても、納得ができるかというと別問題だ。
 楽譜を片付けることも、グランドピアノの蓋を閉じることもない。
 そんなことをしなくても、誰かがやるに決まっているからだ。
 安在グループの総帥の直系の孫。
 この屋敷での華蓮の立場だった。
 樋口の姓を名乗っている華蓮はいらない、と言われているようだった。
 ジャケットの中に入れてきていたMP3プレイヤーの電源を入れる。
 イヤホンをして、帰り道を急ぐ。
 嫌になるぐらい世界は雑音であふれている。
 それを遮断するかのように、樋口華蓮はクラッシック音楽に耳を傾ける。
 「フラクタル」目次に戻る
 「紅の空」に戻る