理想的な結婚

「結婚ですか!?」
 春も麗らかな昼下がりに、若い娘の素っ頓狂な声が響いた。
 空を舞う雲雀もかくやという鋭くも高い声は、部屋の片隅に飾られた花に戯れていた胡蝶もピタリと静止するようなありさまだった。
 書物から顔を上げた娘は、己の父をにらみつける。
「お前もそろそろ片付いても……いや、その嫁ぐのにふさわしい歳だろう」
 地方都市の長官の下で、文官をだらだらと世襲のように勤めているリュ家の当主ナイユは、困ったように言う。
 貴族としては下から数えたほうが早いぐらいの家の格で、臣民としてはそこそこ成功しているほうの家柄だった。食いっぱぐれることはないけれど、劇的な出世をすることもできない。どこまでも『ほどほど』の家の当主は、やはり『ほどほど』の父親だった。
「父上。まるで嫁き遅れみたいな言い方をしないでください」
 リュ家の長女メイファは言う。
 春を告げる花の名を持つ娘は、春の盛りに咲く海棠のようになよやかに育たなかった。
 雪に負けじと咲く花だ、と家の者たちから苦笑混じりに言われることを、密かに……これでもメイファは気にしていた。
 だが、この父を持てば、子はしっかりしすぎるもの。
「事実……いや、お前と同じ歳の娘たちの中には、すでに母になっている者もいるだろう。
 早すぎる、というわけではないと思うのだが……。
 お前ときたら亡き妻に似たのか、変に強情なところがあって」
 ナイユは芝居がかった調子で、ためいきをつく。
「お言葉ですが。
 父上によく似ていると、父上の囲碁仲間の方からはお言葉をいただきますわ」
 メイファは言う。
「それはともかくとして、お前の望みを叶えようと、父は必死になって探した先なのだよ。
 今どき、側室を持っていない男など、なかなかいないのだよ。それなのに、お前は正妻じゃないと嫌だ。他に女がいるような男は嫌だ。とわがままを言うし」
 本当に困った、とナイユは言う。
 うら若き乙女に『男は側室を迎えて当たり前。嫁いだ先に庶子がいても機嫌を損ねたりはするな。』と向き合いたくもない現実をつきつける親がどこにいるというのだ。
 どこかうっかりしている父には、はっきりすぎるぐらいに希望を伝えておく、というのはメイファが十七年ほどで培った経験による持論である。
「父上は『今どき』ではないのですね」
「それはそうだろう。もう歳だ。
 若い妾を迎えるのは面倒だし、家を継ぐ息子もいることだし。
 お前だって、自分と同じぐらいのお母さんができたら、色々と気苦労をするだろう?
 それにお前のお母さんを超えるような女性はなかなかいないし……容貌だけでもリュイに似れば、玉の輿にも乗れたのに、お前は本当にかわいそう子だね」
 しみじみとナイユは言う。
 言わないでも良いようなことを口にするのが父だった。『慣れ』という単語でもって、メイファは『容貌云々』以降の言葉を無視した。
「いくら初婚でも、父上のお友だちなんて嫌ですからね。
 その歳まで独身なんて、訳があるに決まってますから」
「お前は、どうしてそんなにわがままなのだろう。
 安心するといい。お前の願いどおりのだんな様を見つけてきたからね。お父さんは苦労したんだよ。
 わざわざ都の大臣たちに取り入って、頑張ってまとめあげた縁談だからね」
「それは大変でしたわね」
 メイファは読書を再開した。
 どんなに夫候補が素晴らしいかリュ家の当主は力説する。そんな縁談をまとめるのに、どれだけ苦労したかとうとうと述べ続けるのだ。話し出すと止まらない父が、よく宮仕えなどできるものだとメイファは感心する。
 地方長官がよっぽど馬鹿か、大らかなのか。それとも平和が続いているせいか、ボケたのか。そういえば、地方長官はたいそう高齢だと聞く。そろそろ中央から、新しい長官がやってくるのだろうか。そうなれば、父は……いやリュ家は勤めが果たせるのだろうか。……父上が不興を買ったのなら、一番上の兄が出仕すれば良いのだろう。何はともあれ、平和というのは素晴らしいものだった。
「というわけで、次の吉日にはお前は嫁いでいるのだよ。
 よくよく心を決めて置くように」
「はあ?」
 流し聞きしていたメイファは、訊き返した。
 読んでいた文章は吹き飛んでしまった。確かに自分の結婚話を適当に聞いていたメイファにも非があるが、突拍子もない話を聞かされれば、誰だって少しばかり大げさな反応をしてしまうだろう。
 結婚はいつかしないければならない行事のようなものだし、ある程度希望を出すことができるとはいえ、家長である父が決めた結婚をぶち壊すほど想う相手もいなければ、情熱もなかった。
 期日が急すぎるように感じたが、こういうものは内々に進んで、準備が全部終わってから当人に告げる、という形式も『形式美』というものなのかもしれない。いつまでも廃れないのはそれなりに利点があるのだ。駆け落ちを未然に防ぐことができるだろうし、有無を言わせずに押し切るのにはちょうど良いのだろう。
「だから、第八公子ロンホン殿の正妻に迎えられるのだよ」
「第八……。そんな方、いらっしゃったんですか?」
 現皇帝はすでに四十を超えた第一公子を始めとして、やたらと子宝に恵まれている。平和すぎて後宮に通うぐらいしか、やることがないからだ、と知識人に皮肉られている。
 メイファは、すでに政治に参加している第四公子までの名は知っていたが、それ以下は存在自体を知らなかった。玉座につく好機を得られるのは、せいぜいそれぐらいまでの公子となる。あとはオマケのようなもの。一万回に一度しかないような不運のために、血筋を保管しておくための存在だ。かなりの奇行に走らない限り、世間では話題に上がらない。
「ユイ才人がお挙げした公子で、まだ年若く」
「才人!」
 後宮三千人といわれる佳人たちの中でも、下から二番目の女官だった。よくもまあ、皇帝から寵愛を授かったものだ。しかも公子をお挙げしたというのに、才人どまりでは、元の位はかなり低いのだろう。下手すると最下級の下女だったのかもしれない。現皇帝は父よりも歳を召されていらっしゃるので、実に旺盛な方だと表現しなければならないだろう。
「都でお目通りをかなったが、噂にたがわぬ方で。
 柔和でおられながら、芯の強い方で、姿かたちもさっぱりとした中にも優しさがにじむような」
「つまり、褒めるようなところがない方なのですのね。
 顔も普通だし、頭の中身も普通だし、体のほうも普通なのですね。しかも、性格のほうも優しいといえば通りが良いけれど、優柔不断で、覇気の感じられないような方……と」
 メイファはためいきをついた。
 平和な時代だからこそ、生きながらえたような性質なのだろう。『優しい』性格とは物は言いようだ。
「皇帝にはなれないだろうが」
「第八公子が玉座につくなんて番狂わせも良いところでしょう。当然です」
「お前の夫としては悪くはないと思うのだけれど」
「厄介払いをしたかった大臣に、父上は利用されたのですね。
 それとも、そのロンホン殿の後ろ盾になって、玉座を狙うつもりなのですか?」
「まさか! 恐れ多い」
「玉座を狙えない公子に利用価値などありません。
 どっかの地方に飛ばされて、飼い殺しですわね」
「そうは言うけれど、悪くはない生活だろう。
 一生、暮らしを面倒見てもらえるのだから。
 子ども、いや孫ぐらいまでは官位が保障されて、好きなように暮らしていけるのだし」
「で、その方の正妻に、どうして私がなれるんですの?
 ゴミくずのような公子とはいえ、皇帝の血を受け継ぐ殿方。
 都の姫君たちがすでに妻に納まっていそうなもの」
 メイファは尋ねた。
 地方に住んでいる下級貴族にとって、一応は玉の輿。父が言うように悪くはない嫁ぎ先だった。王族の正妻ともなれば、よっぽどのことをしでかさない限り、今の生活水準を下回ることはないだろう。衣食住の心配はない。王統を残すという意味で、側室を持つことを止められないし、庶子たちの面倒を見ることになるかもしれないが、メイファの家格から嫁ぐなら我慢しなければならないことだった。それに、同格の家に嫁いだとしても、嫡男を生み、その子が無事に育たなければ、側室問題とは常に向き合わなければならないことだった。
 器量がいまいちなメイファにとって、美しい側室を迎える夫というのは許しがたい存在だったが、公子の夫を持てば『仕方がない』で乗り切れる……かもしれなかった。
「ロンホン殿はこの度、この地の長官としていらっしゃられる。
 近々、成人なされるからな。そこで領地をいただくことになって」
「父上。……ロンホン殿は、おいくつなのですか?」
 メイファは話をさえぎった。
「十五を数えられた」
「歳下!」
 メイファは二つも歳下の子どもに嫁ぐのだ。
 目眩を感じた。
 成人すると同時に妻を持たせるのはよくあることで、その場合妻に迎えられる娘は一つか二つ歳上になることがある。
 メイファは歳上すぎる夫も嫌だったが、歳下の夫も同じぐらい嫌だった。花も盛りの娘頃なら、その若さで夫を射止めておくことは可能だったが、女の容色というのはあせるものなのだ。桜の花がパッと散るように、よほどの幸運に恵まれない限り、女というものはガクンと年老いる。
 自分より若い夫を持つというのは、器量良しではない娘にとって、心落ち着かないものだ。
「年寄りに比べれば良いだろう。
 それに二つぐらいの歳の差など、私ぐらいの歳になると気にならなくなるものだよ。一生、顔を合わせていくのだから」
 ナイユは娘の気持ちなど気づかずに、大らかに笑う。
 美しいうちに儚くなった母は、恵まれたと思う。記憶の中の母の美貌はかすむことなく、より鮮やかになるばかりだろう。現実に立ち向かう必要などないのだ。
「父上。隠し事はなしにしていただけます?
 他にその公子は、どんな問題を抱えていらっしゃいますの?」
 毒を喰らわば、皿まで。不利な条件は全部、訊いてしまおう。
 メイファは意を決して尋ねた。
「とても素晴らしい方だよ。
 きっと、お前と気が合うだろう」
 リュ家の当主は言い張った。
「その『きっと』が当てになりませんわ」
 いったい父はどこからそんな確信を持ってくるのか。
 自信満々に断言されるほどに、不安を覚えていくのだった。

   ◇◆◇◆◇

 後宮三千人。咲き乱れる華たちは、爛漫を迎えた春よりも艶やかで、鋭い。その中で見事、寵愛を受けることができた華が産み落とした地上の奇跡は、あまりにも……平凡な容貌だった。
 華燭の典を上げたばかりの初々しい花嫁であるところのメイファは、がっくりと失望したのだった。
 もうちょっと、どうにかならなかったのか、と天を恨みたくなる外見だった。育ちの良さが全開に出た、出世競争から早くも落伍した貴族の三男坊の風貌である。悪くはないけれど、良くもない。とにかく締りがない顔をしていた。これから毎日、この顔を見てなければならないかと思うと、実に味気のない日々であった。父や兄たちの見てくれが、マシな部類に入っていたのが、メイファの不運だった。
 それでもメイファは花婿の美点を探すべく努力をした。夫になった少年は成長期である。数年後に凛々しい青年に育ってくれれば……と思ったが、それは無理だということにすぐさま気がついた。
 平凡な容貌なのだから、いくらでも化ける要素はあるのだが、全体の雰囲気がダメなのだ。
 何を考えているのか、いまいちわからない。少年はぼんやりとした空気を濃厚にかもし出しているのだ。どれだけ美青年に育ったとしても、この『良いところのぼんぼん』の空気を一掃することはできないだろう。
「これからよろしく頼む」
 想像よりも低い声が言った。
 声変わりは終わっているらしい。キンキン声を聞くよりは良いが、やはり声も凡庸だった。美声ではない。
 そんな感想をメイファが抱いていると、ロンホンは何の気負いもなく、新床で手をつき頭を下げた。
 そういう役回りは花嫁のメイファがすべきことであって、花婿にさせるべきものではない。これは常識であり、嫁ぐ前に乳母から何度も念押しされた所作の一つだった。
「こちらこそ」
 慌てて、メイファも頭を下げた。
 これを覗き見している者がいたら、頭を抱えたくなるような対応だという自覚がメイファにもあった。仮にも公子なのだから、もう少し丁重に扱うべきだったのだが、メイファにとっても初めての経験である。緊張していれば、本に書いてある通りに振舞うことなどできない。
 そう、メイファも少なからず緊張をしていた。
 同い年で母になっている友だちに聞くところによれば、すべて夫に任せていれば良いとのことだ。が、しかし、友だちの夫はすべて歳上なのだ。全部が全部、参考にならない。
「一つ良いだろうか?」
「はい!」
 メイファは勢い良く返事をしてしまった。
 到底、寝所の中で上げるような声量ではなかった。穴があったら、一生そこにもぐって、出てこないですむように、あれこれ細工するとメイファは痛烈に思った。
 恥ずかしさで耳まで紅く染まるのがわかる。メイファは唇をそっとかみ、袖の中の手を握りこんだ。
 一度の失敗は呼び水のように、失敗を連鎖させる。
「メイファ、と呼んでも良いだろうか?」
 ロンホンが尋ねた。
「はい! お好きなように!」
 メイファは自分が見えない糸に縛られて、ガチガチになっていくのがわかった。無意味に心臓がドキドキして、体中に熱が駆け巡る。それは抑えることのできない激しい感情で、メイファの頭の中は混乱する。わけのわからない気持ちのままに、泣き出したくなってしまう。母の葬儀ですら、恥ずかしくて子どものように泣けなかったが、今なら自然に声を上げて泣き出せそうだった。
 どれほど知識を詰めこんでも、役には立たない。それを思い知らされたようで、苦しかった。悲鳴を上げて、メイファの心が身体から逃げ出そうとした、その一瞬前。
「良かった」
 ロンホンは微笑んだ。
 おっとりといえば聞こえが良いだけの笑顔だった。乙女がとろけるような極上の笑みとは違う。間の抜けたようなありきたりの笑顔だった。
 けれども、何故かメイファには居心地が良かった。
 自分ばっかり緊張しているのが『唐突に』馬鹿馬鹿しく感じ、集中しすぎた意識がほぐれていく。
 首と肩に張り詰めた糸がぷっつりと切れる。
 息が自然と吐き出された。
 自分でもおかしくなるぐらいの緊張から解放され、メイファは余裕を取り戻す。
「私のことも、名で呼んで欲しい」
 少年はメイファの心の動きに気がつきもせずに、自分の用件を続ける。
「ロンホン、殿」
 呼び捨てにするのは失礼かと思い、メイファは敬称をつけたすように呼んだ。
 夫になった少年は、飛び切りの笑顔を浮かべた。
 嬉しくって仕方がない、という笑顔で、黒い瞳は子どもらしくキラキラとしていた。
 ちょっと……可愛いかもしれない。
 と、メイファは思った。
 たかが名前を呼んだだけだ。少年がいないところでは散々口にしていた音の並びだった。新鮮味すらない事柄だったが、……そうではなくなる。
「ありがとう」
 ロンホンは嬉しさを隠さずに言う。
 こんなに喜ぶなら、何度でも呼ぼう、と思うような。
 そんな気持ちにさせられる。子どものように無垢で純粋な笑顔だった。
 育ちの良さがにじんでいるのも、こういうときは悪くないのかもしれない。ちょっとやそっとでは動転しないのが……頼りがいがあるように、ほんの少しばかり見えるかもしれない。
 これから先、ずーっと付き合っていくのだ。短所は長所にもなる、と思って、良いと感じたものは良いということにしておこう。メイファは頭の中の記録帳の公子のところを書き換えた。

    ◇◆◇◆◇

「メイファ。花が咲いた」
 この地方の長官である第八公子は、今日も暢気だった。
 すくっと背が伸びて、妻の背丈を追い越しても、花を探し、鳥を追いかける。
 蕾がほころんだと言っては喜び、月が綺麗だと言っては夜の散歩に誘う。美しいものはすべて共有しなければ気がすまないようで、新しい発見があるたびに、メイファを呼びに来る。
 率先して側室を迎えるような気概もないので、メイファの立場もまずまずは安泰であった。後継争いに頭を痛めることもなく、側室たちに手を煩わされることもなく、夫の出世にやきもきすることもない。無難な結婚だったのかもしれない。
「ほら」
 侍女たちの制止をものともせずに、夫が部屋に乱入してくる。
 その手には一枝、握られている。
 透明な雫をつけた白い花弁が勢い良く卓の上で散る。
 ポタッと落ちた水滴に
「風邪を召しますわよ」
 メイファは目を丸くしながら、花枝を受け取る。素早く侍女に目配らせをして、乾いた布を用意させる。
「ずっと咲くのを待っていたんだ。
 去年から」
 ロンホンは言う。
 花からは、胸をつくような春の香りがした。
「ずいぶんと気長ですのね」
 メイファは侍女に花枝を渡すと、布を受け取る。
 水気の多い雪にまみれた夫は、とっても嬉しそうに笑う。
 服を脱がせて、湯船につけたほうが早いかもしれない。
 メイファの手は甲斐甲斐しくも働くが、頭の中ではためいきをこぼしていた。
 ポタポタと冷たい雫が、ロンホンの髪先から拭っても拭っても垂れてくる。乾いた布など気休めだと言わんばかり、かつて雪だった水がメイファの作業を邪魔をする。
「私に春を告げてくれた花、そのものだ」
 よくわからないような話を笑顔のまま言う。
 夫は優しそうに見えて、実は芯が強い……のではない。他人の話をちっとも聞いてないだけなのだ。
 自分の話ばかりに夢中なのは、父に良く似ている。
「メイファに初めて会ったとき、梅の花精かと思ったんだ。
 とても良い香りがしたから」
 抜け抜けとロンホンは言う。
 まだ濡れているのに、メイファを抱きしめる。
 頬に冷たい感触がした。
 春先の雪を吸い込んだ衣は想像したよりも濡れていて、性質が悪かった。
 いったいどれほど庭に出ていたのだろうか。ロンホンは一つのことに集中すると、他がお留守になる。こういうときのために下官がいるはずなのだけれど、途中で撒かれたのだろう。全く仕方がない。
「やっぱりお風呂に入ってください。
 話はそれからです」
 メイファは腕を突っ張り、言った。
「それで――」
 ロンホンの話はなおも続きそうだったが、メイファは夫の顔に湿った布を押しつける。
「話は後です」
 きっぱりとメイファは言った。


 夫婦仲は良いほうだと思う。
 ただ、父が言ったように『気が合っている』わけではない。
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