まっすぐと歩いていた。
 どこまでも続くように錯覚させられる、舗装された道を娘は歩き続けていた。
 東へ、東へと。
 海のある場所、太陽が昇る場所へ。
 迷いもなく、しっかりとした足取りで歩いていく。
 やがて、たどりつく。約束の場所に――。


・地球から人類が消滅するまで、あと336時間――宇宙港<ポート> JS‐ポート

 ――まったく、困ったもんですね
 ――まさか、こんなことになるなんて。私が子どもだったころには考えてもみませんでしたよ
 ――ママぁ〜!!
 ――あの大統領で……大丈夫なのかしら
 ――すげぇー、楽しみなんだけど!
 ――わかる、わかる
 ――はぁ

 JS−ポートはいつになく混んでいて、花束を抱えたチアキ・ハセガワは眉をひそめた。
 何となく視線が集まってくるのだ。
 好奇心丸出しの直視は、まだマシ。
 チラチラとこちらを見て、含み笑いを浮かべる大人どもが一番タチが悪い。
 チアキは、不機嫌にポート内を横断する。
 探し人が見つからないのだ、仕方がない。
 10分ほど歩いたところでようやく、探し人を見つける。
 大昔の映像ディスクの中にいるような格好の女性が立っていた。
 白い日傘に、つばの広い帽子、ロングドレスに、手袋。
 世界一周旅行にでも出てくれそうな勢いだ。
 優しげな顔立ちに、微笑みをにじませた妙齢の女性に、チアキは近づく。
 相手もこちらに気がついたのか、女性は軽く手をあげる。
「チアキちゃん。
 何て格好しているの?」
 女性――ハルカ・モリヤは呆れたように言った。
 ライトグレーのジャケットに、洗いざらしのT‐シャツ、ジーンズに、スニーカー。
 チアキの格好は、ポート内では浮いていた。
 が、時代錯誤どころの騒ぎでない格好の女には言われたくない。
「モリヤさんに言われたくないし」
「旅立ちの装いよ。
 綺麗でしょ」
 ハルカはその場でクルッと一回りしてみせる。
 手の込んだドレスの裾がフワッと広がる。
 クラシックレースがひらりとひるがえるのが、映像ディスクのように見えた。
 残念ながら、チアキは度し難い懐古趣味は持ち合わせていなかった。
 時を止めたアンティークたちだ……と思っただけだった。
 困ったように笑い
「はい、餞別」
 チアキは抱えていた花束を渡す。
「あら、ありがとう。
 造花じゃないのね」
 良い香り、と花に顔をうずめ、ハルカは言った。
「そっちのほうが良かった?」
「まさか。
 嬉しいわ、ありがとう。
 別に、運び屋を使っても良かったのに」
「下見がてらに」
「……今、なんて?
 聞こえなかったから、もう一度」
「あ、こっちのこと。
 んじゃあ、これで。帰るよ」
 チアキは言った。
「一緒に行かない?」
「あー、遠慮しておく。
 それに、その件はよーく話あったし。……ね」
「でも諦めきれないのよ」
「モリヤさんは、おっせかい」
 チアキは小さく笑った。
 それに、ハルカは微苦笑を浮かべた。
 用件はすんだ。
 チアキは時代錯誤の貴婦人に背を向ける。
「じゃあ、またね」
 ハルカの名残惜しそうな声が届く。
「そういうことにしておいて」
 雑踏にまぎれる前に、一度だけ振り返って、友人を見る。
 ハルカは微笑んでいた。
 つられてチアキも微笑んだ。

・地球から人類が消滅するまであと24時間――エリアJ‐H

 手つかずの自然を遺そうとして、遺せなかった場所に若い女はたたずんでいた。
 カーキ色のジャケットの下にコットンシャツ、インディゴ色のジーンズ、スニーカー。明るいオレンジのデイパック。と、旅行者らしい姿だった。
 やや軽装といえなくもないが、都市部に向かうならば関係がない。
 この季節、珍しくもない旅行者らしい旅行者だった。
 気軽な一人旅のような雰囲気の若い女――チアキ・ハセガワは、どこまでも広がる大地で大きく息を吸い込んだ。
「ひっろーい! 大きーい!!」
 声の続く限り叫ぶ。
 肌を切るように吹く風が、ありきたりなメゾソプラノをのせていく。
 誰もいない、どこまでも広がるパノラマを、チアキは見つめ続ける。
 あるのは空と、雪の落ちた草原だけだった。
 空が青い。
 流れる雲との対比が痛いぐらいに、澄んだ青だった。
 生命を拒絶する砂漠のど真ん中で見る空と同じくらいに『青い』と思った。
 それは哀しいけれど、不幸ではないように思えた。
 この世界で一番美しい空を見上げている。
 原初の地球には劣るだろう。
 人類が初めて見上げた空には、敵わないだろう。
 だけれども『今』これ以上の青空は知らない。
 19年間生きてきた中で、一番キレイな空だった。
 だから、チアキにとって最高で、最上の空だった。
「……誰もいない」
 当たり前のことをつぶやいた。
 ほんの2、3週間前なら、観光客でにぎわっていたのかもしれない。
 ここは有名な観光地だった。
 J−Hへ来るための特別列車のチケットは一月待ちが当たり前で、発売と同時に売切れてしまうのだ。
 特等席のために、半年前や一年前から待つ人種もいたぐらいだ。
 今日、チアキは特別列車の特等席に座って、ここまで来た。
 チケットは予約していなかった。
 プレミアもののチケットを買うお金なんて、チアキは持ち合わせているはずもない。
 乗れたのは偶然。乗ってきたのも偶然。
 こんな状況で観光をしようと思う人間なんていない。と、多くの人間が考えた。
 常識というものは、その程度の認識で作られる。
 その結果、チアキは乗れてしまったのだ。
 常識を破ったつもりはない。
 保守的で、内向的で、優柔不断なチアキは、ギリギリの土壇場だからこそ、追い詰められるように決断したのだ。
 消去法と差異はない。
 長いかもしれない人生の最大で、最後のチャンス。これを逃したら、もう二度と機会がないかもしれない。
 そんな理由で、生まれて初めての旅行に出たのだ。
 後悔はじわじわとしているが、決断まで後悔はしていない。
 貴重な思い出づくりだ。
「ありがとー!!」
 チアキは叫んだ。
 面と向かったら気恥ずかしくて、とてもじゃないけど言えないこと。
 『誰か』が聴いている可能性もなくはなかったが、見えてない人間はカウントしないことにした。
 

・地球から人類が消滅するまであと12時間――トレイン『A‐08』

 技術というのは、驚くほどのろい歩みで進歩したかと思うと、飛躍的に伸びたりする。
 後に宇宙元年とされる年、亜光速跳躍法<リープ>が開発された。
 画期的な宇宙航法で、とうとう人類は光の速さに近づいたのだった。
 宇宙基地の増産、人口天体<コロニー>移住計画立案。
 人類は夢の世界へ飛び出した。
 いくつかのいざこざを体験し、数多くの発見をものにした。
 悲惨なるファーストコンタクト、他の惑星の地球化<エデン>計画、領土問題と、宇宙を知った人類の歴史は刻まれていく。
 華々しい発見の連続も、チアキにとっては祖父母の時代。
 体感のない、歴史的認識の中だ。
 チアキの生まれ育ったハセガワ家は、この時代でも「家」と名乗るぐらいには保守的だった。
 報道機関が地表主義と呼ぶ、惑星から一生出ない人間たちの集まりだった。
 自慢は、親戚一同、宇宙に出たことがない。
 『金属の塊が宙を跳ぶなんてありえない』
 それが祖父の口ぐせだったらしい。
 低所得者であっても、人生に一度ぐらいは宇宙旅行をし、気が向いた人にいたっては、宇宙空間で生活する時代である。
 そのための宇宙港であり、コロニーだ。
 政府の思惑も何その。
 ハセガワ家はいたってマイペースに日々を送っていた。
 あの日までは。

「植物の灰に砂を混ぜて、神の火で焼いて、小さく砕いてばらまいて……。
 って、何だっけ。
 ……思い出せない」
 チアキは言った。
 声の届く範囲に人がいないのだから、完全に独り言だ。
 乗客一名の車両は、滑るように街を抜けていく。
 夜になった街は、ネオンすら灯らずに、生命の輝きが見当たらなかった。
 あるのは、ぽっかりと空いた常闇。
 それと、無数の星。
 目を凝らせば見つけられるだろうか。
 <コロニー>も<エデン>も、星に違いない。
 人類を生み出した地球も、育んだ太陽も、きっと想像しなかっただろう。
 勝手に星を増やすだなんて。
 100年前よりも、宇宙には星の数が増えた。
 にぎやかになった宙は、はたして喜んでいるのだろうか。
「そういえば、みんなどうしたんだろ?」
 かつては通勤通学に使われた車両も、チアキ一人のために動いている。
 電力の無駄もいいところだが、技術の恩恵は受けとく主義なので、チアキは迷わず乗った。
 出入り口近くの電光掲示板は、オレンジの光で目的地を示し続ける。
 変わっていく駅名は、ほとんど知らないものだ。
 未知の世界へ飛び出した気分になる。
 武器は何一つない。
 不安に侵食されそうになる。
 チアキは膝の上のデイパックを抱えなおした。
 今頃、家族と呼べるような人たちは、どうしているのだろうか。
 独り立ちしてからは、連絡を取り合うことも減った。
 寂しさよりも、面倒くささが先立って、一年に一度連絡すれば良いほうだった。
 さすがに、こんな局面にもなると、心配になったりする。
 だからといって、連絡はしない。
 そんなことをすれば、どうなるか結果が見えている。
 チアキは腕時計をチラリと確認する。
「あと、半日」
 ルートは頭の中に入っている。
 何度も確認したし、下見もした。
 時間も余裕がある。
 事故でも起きない限り、時間切れになることはないし、時間切れになったらなったで、それでもかまわない。
 大丈夫、と自分に言い聞かせる。
「……大丈夫」
 声に出して、不安を減らす。
 チアキは大きく息を吸い込んで、ゆっくりと息を吐き出した。
「何とかなる」
 ようやくやってきた眠気に、体を受け渡す。
 星の間を駆け抜けるような車両に、思い出しかける。
 あれは、祖母が好きだった、話だ。
 夜、銀河を走る……列車の……話。
 金剛石をまいた。ような夜空を、旅する少年……の……。


・地球から人類が消滅するまであと4時間――エリアJ‐T

 目を覚ましたら、終点だった。
 隣には薄倖の少年はいなかった。……わかりきった現実はそんなものだ。
 トレイン『A‐08』の座席シートは心地よく、うっかり横になっていた。
 チアキ一人だったからいいものの、他に乗客がいたら、多大なる迷惑になっていただろう。
 眠っている間に、世界は朝を迎えていた。
 そこからさらに乗り継いで、ようやくエリアJ‐Tに入った。
 この州の中心地。州都と呼ばれる場所だ。
 人生初や人生最大を連続で体験し続けると、感動も薄れるものだが、とりあえず人生最長の乗車時間だった。
 もっと短く、楽に、旅行ができないわけじゃないが、チアキはメンドーな方を選んでいる。
 チアキは舗装された道を歩き出す。
 かつての州都も閑散としたもので、人の気配というものがなかった。
 この世界のどこでもそうなのかと思うと、奇妙な感じだった。
 地球から人類がいなくなる理由は、隕石の激突でもなく、宇宙人の来襲でもない。
「SF小説家も大変だ」
 チアキは笑う。
 科学は日進月歩。
 昨日のものはカビ臭くなり、半歩先のものはすぐさま現実になってしまう。
 未来はすでに現在になり、あっという間に過去になる。
 振り返ることばかりが得意なチアキは、さしずめ生きた化石だろうか。
 このまま地表に貼りついて、誰かに発見されるまで眠るのも良いかも。
 かつてチアキだった固体は生命のゆりかごになる。
「わたし、一人で46億年を振り返る」
 口に出してみると、気分がいい。
 自分が女王陛下にでもなったかのようだ。
 海から始まった遺伝子の記憶は、全部持っている。
 チアキの体は、覚えている。
 人類のすべてがそうであるように、進化の記録が刻まれている。
「ある日、わたしは発見される。
 宇宙人は、わたしを解剖して、標本を作るんだ。
 もしかしたら、クローニングするかもしれない」
 そこでチアキは言葉を切る。
 自分のクローンは、何を話すんだろうか。
 脳まで再生できるのだろうか。
 チアキの海馬は何を覚えていてくれるのだろうか。
「何も覚えてないかも。
 まあ、メディアにでも記録しておかないと、脳の再生はムダだし。
 あ、でも、宇宙人にとって酸素が有害だったりして。
 そうしたら、劣悪な環境に見えるよね、ここ」
 チアキは四角に切り取られた空を見る。
 21時間前に見たおわん型の空とは違う形。
 もちろん、336時間前の空とも違う色。
 新しい空を見る。
 これから、もっとキレイになる空だ。
「よし! 歩くぞ」
 気を取り直して、チアキは足を進める。


・地球から人類が消滅するまであと117分――エリアJ‐Tの中心地近く

 チアキは腕時計を見る。
 見間違いをしないように配慮された24時間計は『117』となっていた。
「あれ?」
 前に見たときは『09:57』と表示されていた……。
「2時間切ると、こんな風になるってことか。
 時限爆弾みたいだな」
 大差ないのかもしれない。
 ゼロになったら、爆発するかもしれない。
 その可能性も、なくはなかった。
 腕時計を支給したお役所が短気じゃないことを祈るのみだ。
「どっちでもいいか。
 とりあえず、何か飲み物っと」
 道端に設置してある自動販売機に近寄る。
    キュルリィ  リィィャン
 機械特有の起動音と共に、本体がパッと発光する。
『いらっしゃいませ。何をお求めでしょうか?』
 愛想の良い自動販売機は、好感の持てる女性の声で話す。
「えーと……」
 ズボンのポケットから電子貨幣<カード>を取り出しかけて、しまいなおす。
 334時間前だか、333時間前の、つまりは2週間前から<カード>は使えなくなっているのだ。
 人類は減少傾向にある。
 お金のやり取りは、意味のないものになってしまった。
 少なくとも、この地球上では。
 貨幣経済の破綻間際の苦肉策。
 チアキはデイパックのポケットから、IDカードを取り出す。
 表面の盛り上がった英数字は『J‐S‐213509』。
 チアキ・ハセガワを意味する英数字だ。
 下6桁が数字だけで構成されているのがちょっとした自慢だったりする。
 自動販売機のスロットにIDカードをスキャンさせる。
『チアキ・ハセガワ様ですね』
 初対面の機械に名前を呼ばれる。
 くりかえしても慣れないものは、世の中に五万とある。
 きっとこれを考えた政府のお偉いさんや、人権保護団体さんは、親切のつもりだったのだろう。
 市民番号で呼ばれるほうがマシだったと思う。
 文句をつけようにも、考えた人たちはお空の上なのだ。
 つけようがない。
「んー」
 ふと思い立って、缶ビールのスイッチを押してみる。
 生真面目なチアキはこれまで買ったことがないが、<カード>で購入できるはずのものだ。
『エリアJ−Sの法令で、20歳未満の方にはお売りできません。
 ご了承くださいませ』
「うわっ、スゴイ!
 自販機全部、IDカード式にしちゃえばいいのに。
 社会問題一つ片付くし」
 感心しながら、チアキはアイスウーロン茶のスイッチを押す。
『お品物になります。どうもありがとうございました』
 チアキの腰の辺りで自動扉が開き、缶のウーロン茶が出てくる。
「冷たっ!」
 缶を受け取ると、チアキは再び歩き出す。
 自動販売機はシュンと音を立て、休止モードに入る。
 手の平で缶の冷たさを楽しんだ後、プルタブを上げる。
 気温、湿度共に調整された都市部は、軽い運動に適していない。
 少し動くと、うっすらと汗をかくのだ。
 喉も乾く。
 トイレが近くならないのは、幸いだろう。
 350mlの缶をグビグビと飲み干す。
「熱中症になったら、どうするんだろ?
 …………ごちそうさまっと」
 チアキは道端に設置された、小型の半円形のフォルムを持つ機械に向かって、空き缶を投げる。
 空き缶は、チアキの期待を裏切って、明後日の方向に飛んでいってしまう。
 が、小さな機械――都市部小型清掃機械は起動して、伸縮式のアームで空き缶をキャッチする。
 それを横目で見ながら、チアキは足を進める。
 この世界は人間がいなくても、管理されている。
 食べるものも困らず、寒さを知らず、お金も存在せず、身分や階級もなく、優劣もない。
 理想郷とは、こんな世界を指すのかもしれない。
 人間を介在しないからこその……。
 チアキは大きく息を吐き出した。
 複雑な気分になる。
 目的地まで、あと少し。
 鈍くなりがちな足を叱咤激励する。
 旅行には出発と到着があるのだ。
 留まることはできない。
 必ず、目的地へ向かう。
 それが約束なのだ。
 この選択をしたのは自分なのだから、と弱くなっていく心を励ます。
 太陽の向かう先とは逆方向を、まっすぐと歩く。
 海に向かって、ひたすら歩く。