第三話 「動」

 共同計画が終了し、研究員たちは各々の研究院へ戻った。
 平穏が戻るまで、まだしばらく時間がかかるだろう。
 シユイは、一人分のデスクにためいきをついた。
 元に戻っただけだというのに、空いている空間が寂しかった。
 かすかに流されたコンチェルトが名残だろうか。
 どこか可愛い感じのする曲調は、好みじゃなかったはずだ。
 自動扉が音もなく開く。
「失礼します」
 深い青色の制服に身をまとった小柄な少女が入ってくる。
 首筋近くで揺れる耳飾りの珠の色は、偏光する青。
「イールン」
 シユイは驚いた。
「ここにいてもいいですか?」
 泣き濡れた青い瞳が言った。
 ラベンダーブルー、蛍光水色、コズミックブルーと、めまぐるしく変わる色。
「ええ」
 シユイはうなずいた。
「ありがとうございます」
 ペコリとお辞儀をすると、ルーインはその場で座り込んだ。
 ところどころに金属糸で刺繍された典雅な制服は、ぐしゃっと歪む。
 すべらかな頬を涙がポロポロと伝う。
「イールン、何があったの?」
 この研究院きっての研究員が泣いているのだ。
 無表情だというのが、不気味な感じはするけれど。
 清潔なハンカチを差し出すと、イールンは首を振り、ポケットから自分のハンカチを取り出した。
 真っ白で、何の飾りもないそれで、涙をふく。
 けれども涙は止まらないから、ふいた端から頬は濡れていく。
「ホームシックに良く似ています」
 どうにか涙を止め、イールンは言った。
「サイレント・ソングが恋しくなりました。
 ここには音がないので、シユイ研究員のところへ来ました」
「……そうなの。
 まるで無音恐怖症みたいね」
 シユイの脳裏に、あまり変わらない幼なじみが浮かんだ。
 背は伸び、声は変わったものの、彼はあまり変わらなかった。と、47時間前に別れた少年を思い出す。
「こんな想いをしたのは、初めてです。
 私は、薔薇の研究院へ行きたくて仕方がないんです。
 でも行けません」
 気の毒になるぐらいに、淡々とイールンは言う。
「報告書を提出すれば、出かけられるはずだったけど?」
 シユイは共同計画のガイドラインを読み直す。
「約束したんです。
 評価が決まったら、一番に『薔薇真珠』に降り立つ。
 だから、それまで行けません」
「新しい銀河の名前?」
「いえ『薔薇真珠』は惑星の名前です。
 ヤナ研究員と二人で決めました。
 太古の宝石の名前でもあります」
「銀河ではないの?」
 シユイは、マジマジと年下の先輩を見た。
「はい。
 世界創造の初心者には、いきなり銀河は荷が重過ぎます。
 失敗したときの痛手は筆舌しがたいものになります。
 最初の世界創造は、惑星が良いと複数の本に書いてありました。
 経験してみて、私もそう感じました。
 惑星は大変美しく、永続に近い安定性があります。
 簡単には壊れないでしょう」
 ルーインは淀みなく説明する。
「でも、賞を取るのが難しくなるわよ」
「賞……ですか?
 ベスト・オブ・イヤーのことですか?
 私は、賞が欲しくて、研究しているわけではありません。
 ノミネートされなくても、不満はありません」
 この薔薇の研究院のトップは、名誉をいらないという。
 研究をしたいから、しているだけだと言い切ったその言葉には、傲慢さのカケラもなかった。
 その代わりに、人間らしさもなかった。
「えーと、約束したんだったら、その日まで待てばいいじゃない。
 普段のように、研究して過ごしていれば、あっという間でしょう」
 審査はあと1時間すれば始まる。
 全てに評価をつけるまで、3日とかからないだろう。
「普段の過ごし方を忘れました。
 どうやって、過ごしていたのか、体がまったく覚えていないんです」
 イールンは自分の手の平を見つめていた。
 故障してしまった機械が思考を持っていた場合は、こうなのだろうか。
 とても悲しそうだった。
「そんなに薔薇の研究院は、居心地良かったの?」
 シユイは床に膝をつき、イールンと視線を合わす。
「前時代的でした。
 特に、ヤナ研究員は懐古趣味でした。
 整っていない設備の中、研究員たちは大変実直で、研究に対して誠実でした」
 偏光する青がシユイを真っ直ぐ、見つめる。
「あなたが褒めるなんて、珍しいわね」
「褒めたわけではありません。
 正当な評価をしただけです」
 きっぱりと小柄な少女は言った。
「私だったら、審査終了までの期間を楽しむわ。
 審査後はパーティでしょう?
 どの服を着るとか」
「制服で出席するつもりです」
「気の利いた言葉をかける予定だから、言葉を考えたり。
 ほら、会ったときに言葉を決めておかないと、困るでしょ。
 評価が、あまり良くなかったときとかは」
「そんなことをするんですか?」
「小心者なのよ。
 言葉は、人を傷つけるから」
 シユイは苦笑する。
「新しい惑星に降り立ったときのことをシュミレーションしたら、どう?」
「あちらを発ってから、ずいぶんと考えました」
 イールンは答えた。
「……未来への方向性を決めるとか。
 たとえば、薔薇へ転向する、というのも考えたら」
「そんなこと!
 ……考えもつきませんでした。
 幼い頃から、真珠しか見えていませんでした」
 呆然と小柄な少女は言った。
「私もそうよ。
 でも、ここへ来て迷ってる」
 シユイはためいきをついた。
 真珠の研究院は、最新設備が整っている。
 自分の才能におぼれるわけではないが、どこまでいけるか試してみたくなる。
 そんな人間には、真珠がお似合いだった。
「幸い私の得意分野は、設備にそれほど影響されない。
 薔薇に行くのも悪くない気がする」
 シユイは言った。
「きっかけがあったのですか?」
「共同研究の面白さに目覚めたのよ。
 でも、彼をここに呼ぶことは出来ない。
 だったら」
 そこで言葉を切る。
 まるで恋の告白のようだ、とシユイは思った。
 もっとも『恋』という感情は難解で、シユイはまったく理解できないのだけれど。
「私は、寂しいからです。
 シユイ研究員とは違います。
 話したら、幾分か落ち着きました。
 ありがとうございます」
 イールンは丁寧に頭を下げた。
 長い黒髪が床をこする。
「汚れるわよ」
 今更なことをシユイは言った。

 ◇◆◇◆◇
 
 共同計画の審査は終了し、共同パーティが始まった。
 カップル誕生に一役買ったようで、そこかしこにカップルがいる。
 真珠はともかくとして、薔薇は恋人たちが多い。
 そこへ新カップルがいるのだから、熱々な空気がはびこっていた。
 慣れない空気に当てられて、シユイはよろよろと、パーティ会場を抜け出した。
 会場中、探し回ったのが裏目に出た。
 何故か話しかけられ、研究以外の話を振られ、返事に困っているうちに、また他の人が出てきて、と。
「調和の女神。
 どこへお逃げですか?」
 謎かけのような言葉を幾度、聞いただろうか。
 意味不明なそれに当惑を何度、浮かべただろうか。
 しかし、シユイはほっとした。
「ディエン研究員」
 振り返り、シユイは目を見開いた。
「清潔な格好だわ」
 制服をきちんと着こなし、長い髪は襟元で一つにくくられている。
 色眼鏡がなく、耳飾りもはっきりとしているものだから、真紅が目立つ。
 似合いすぎていて、気持ち悪……居心地が悪かった。
「式典の延長なもんでねー。
 肩こりそーですよ。
 庭に出ても、恋人ばっかりだけど」
 ディエンはニヤリと笑った。
「どこか、ゆっくりできそうなところは?」
 シユイは助けに船とばかりに尋ねた。
「ここのロビー」
「人が多そうだけど?」
「盲点ってヤツだよ」

 人が多いものの、二人に近寄ってくる者はいなかった。
 ふかふかな布張りの椅子に、思わず頬がゆるむ。
「人体工学は取り入れていないのね」
「古き良き時代の遺物だからね。
 薔薇の研究院では……ま、たまにあるかな」
 透明樹脂のテーブルには、グラスが二つ仲良く並んでいる。
「人が来ないわね」
「皆、研究には熱心だからだろう。
 でも、こっちには興味があるみたいだな。
 呼べば喜んで来るだろう。
 呼ぼうか?」
 ディエンは笑みをたたえたまま提案する。
「討論は好きよ。
 でも、あなたとの話の方が重要ね。
 ずいぶんと一緒にいたけど、話らしい話をしなかったでしょ」
「話らしい話ねー。
 そう言えば、銀河の名前の由来は?
 今日初めて知ったよ、会場でね」
 おかげで他の研究者から尋ねられて、困ったよ。とディエンは言った。
「辞書片手に決めたのよ。
 由来なら、インタビューで答えておいたから、後で見て」
「……制服以外の姿を久しぶりに見たけど、白が良く似合う。
 天使みたいだと、昔は思っていたけど、今は女神のようだ」
 軽い口調とは打って変わって、重みのある声が言った。
「…………」
 グラスに伸ばしかけていた手が止まる。
「お世辞抜きで、綺麗だと思っている」
 さらりとディエンは言った。
 ぎこちなくシユイは真紅の目を見た。
「天使みたい?」
 今はともかくとして、昔の話が出たことに少女はびっくりした。
「本気で思っていたよ。
 友だちなのが自慢だった。
 可愛くて、頭のいい女の子だから。
 ま、子どもの勝手な思い込みだけど」
 ディエンは懐かしむように微笑んだ。
 それがあまりに優しくて、つられるように過去を思い出す。
「私もあなたのことを友だちだと思っていたわ」
「過去形か」
「今はよくわからないのよ。
 友だちって、以前のように思えない」
 シユイは巻き毛に手をやる。
 クルクルとした髪を、手で整えていると、何となく落ち着くのだ。
「時間というものは残酷だ。
 君は美しく、賢くなり、誰もが憧れる女神となった」
「そこも、わからないわ。
 知識は増えただろうけれど、賢いなんて思えない。
 天才を間近で見ると、秀才はそう思えないものよ。
 美しいにいたっては理解できない」
 シユイはグラスを取り、喉を潤す。
 冷たいレモン水が美味しかった。
「馬鹿な道化は何も変わらない」
「道化って、あなたのこと?
 確かに、変わってなくて安心したわ」
 シユイは言った。
 時間はシユイにとっても残酷だった。
 年々、自分の理解の範疇を超える事象が増えていく。
 それが星たちのことであれば、シユイは逆に楽しんだのだろうが、現実は違う。
「安心ねー、それは光栄だ。
 だけど、こうしていると勘違いしそうだ。
 もっと親密になれるんじゃないか、とか。
 気をつけたほうがいい。
 男は獣だ」
 少年はテーブルに肘を置き、頬杖をつく。
 考え込むように目線を落としたその姿は、偉人の彫刻のようだった。
「人はみんな獣でしょう?
 高等生命体の一つではあるけれど、進化樹は明確に教えてくれるわ」
「男の方が、性欲が攻撃的だから、女性は慎重すぎるぐらいにガードをしたほうが良いという意味」
「ああ、そういうことね。
 性差はいかんともしがたいわ。
 実行に移さない男性諸君を尊敬するわよ。
 生物学は、不勉強だから詳しくは知らないけれど、大変みたいね。
 でも、どうガードすればいいの?」
「一番有効なのは、気を持たせない。
 二人きりになったり、二人だけの秘密を持ったり、二人だけで何かを達成したり」
 ディエンの長い指は、数えるように折られていく。
「あなたとは、ほとんどのことをしてるわね」
 シユイは身近なところから、検証していく。
「そういう殺し文句を言わない」
「殺し文句?」
 少女は、知らない単語を聞き返す。
 研究では同じぐらいの知識量だが、日常生活全般となると違う。
 幼なじみは、博識だった。
「男が思い上がるような言葉を使わない。
 無邪気な態度も良くない。
 つまり、君はとても危険だ」
 少年の手が少女の手を握る。
 かさついた大きな手の平は、シユイの手をすっぽりと隠してしまう。
「振り払わないのか?」
 赤い瞳が問う。
「昔は、大きさが変わらなかったのに……」
「10年以上前のことだ」
「振り払ったほうがいいの?」
「期待させたくなければ」
「期待させるとどうなるの?」
「とりあえず、キスでもしようかと思っている」
 ディエンは言った。
「それは困るわ」
 シユイは手を払った。
 こんな人がたくさんいる場所でキスをしたら、恋人宣言したのも同じ。
 それに人前でのキスは、結婚式以外は慎みがない。
 許されるのは親愛の情を示す行為まで。
 少女を育んだ環境は、恐ろしく保守的だった。
 ディエンは、大げさなためいきをついてみせる。
「話は変わるけど、サイレント・ソングって素敵なもの?」
 シユイは数日前から気になっていたことを尋ねた。
「無音恐怖症にとっては、子守唄だ。
 もちろん、コンチェルトも好きだよ」
 真珠の研究院も悪くなかった、とディエンは暗に言う。
 その気遣いに感謝しつつも
「真珠のトップが恋しがっていたの。
 もっと音楽的に再現できないかしら?」
 シユイは計画の打診をする。
 サイレント・ソングを録音するだけでは、雑音だ。
 だから、一日中聞いていても、他者に不快感を与えない程度の音楽になれば、真珠の研究院で聞いていても、さほど問題にならないだろう。
 シユイはそう考えたのだ。
「俺の友人は、偏光する珠を恋しがっていたさ。
 お互い勘違いしていそうだな。
 それとも『薔薇真珠』が勘違いを正して……は、くれないかもな」
 ディエンはためいきをついた。
「勘違い?」
「おままごとみたいでも当人たちは真剣だ。
 初恋って言えば、それまでか」
「……初恋」
 寂しいと涙を流してた小柄な少女を思い出す。
 では、彼女が恋しがっていたのは『サイレント・ソング』ではなかったのだ。
「ああ、そうね。
 初恋ってああいうことを言うのね。
 私も似た感じを知ってるわ」
「おや、珍しい。
 是非ともお聞かせ願いたいね」
 ディエンは言った。
「あら、話したじゃない。
 あなたと研究院が別れて、すっごく泣いたわ。
 自分の分身と別れたように辛かったもの。
 諦めがつくまで時間がかかった。
 この間、薔薇を選んだ理由を聞いて、ようやく納得したの。
 嫌われたと思い込んでいたのよ」
 クスクスとシユイは笑った。
 当時は真剣だったが、思い返してみればおかしい。
「君は俺に何を望むんだ?
 共通の思い出を持つ幼なじみ。
 気のおけない友だち。
 優秀な共同研究者。
 それとも」
「それとも?」
 鸚鵡返しにシユイは尋ねる。
「恋人」
 ディエンはささやいた。
「私は恋をしたことがないから、恋人にするには不適格よ。ディエン研究員」
「本当に?」
「ええ。
 神様が私に与えた欠陥は、恋心よ。
 恋が理解できないの」
 シユイはためいきを微笑にかえて、言った。
 恋愛の話をされると、自分の居所のなさに気づく。
「誰かの別格になりたくなったら、それが恋だろうな。
 自分だけを見て欲しい、相手を良く知りたい。
 それを通り越すと、一緒にいると居心地が良くなる。
 そこまで来たら愛になる。
 俺と君との間には、愛が成立しているという仮定もできなくはない」
「あなたが私を恋人に望んでるの?」
「初恋が終わった気がしてなくてね」
 赤い瞳は穏やかに言う。
 ぎらついた欲望もなければ、激しい情動もない。
 友愛の延長のような優しさだった。
「初耳だわ」
「君が鈍いだけだろう。
 さっきから、ずっと口説いてる」
 ディエンは呆れずに言う。
 考えてもみなかった事態だ。
 自分はあまりに色恋沙汰にふさわしくない。
 孤独を好むわけじゃないが、一人でいることを選ぶのは、他者の言葉の半分も理解できないからだ。
 気の利いた世間話一つできない自分を……。
 全てを手に入れているように思える幼なじみが望んでいる。
「驚きすぎて、思考が飛んだわ。
 こんなこともあるのね」
 ポツリとシユイは言った。

 電子音が鳴り響く

「時間切れか。
 惜しかった」
 ディエンは肩をすくめる。
「明日からの研究のために、帰るだろう?
 送っていこう」
 少年は立ち上がった。
「私、申請を出したの」
 立ちながらシユイは言った。
 このことを幼なじみに話そうと思って、会場中を探していたはずだった。
 すっかり忘れて、違う話をしてしまったのは、どうしてなのだろう。
「承認に時間がかかるから、来年の話になるんだけど」
 自分の行動に疑問を持ちながら、シユイは言った。
「来年と言っても、3ヶ月ないだろう」
 歩きながら二人は話す。
 就寝の時間まで、あと1時間。
 帰り道を急ぐ者もパラパラといた。
「ちょうど良いぐらいだと考えてる」
「どんな申請をしたんだ?」
 ディエンが尋ねた。
「真珠から、薔薇へ行くわ。
 あなたと一緒に研究したくなったの」
 シユイは晴れ晴れと言った。
「未来を棒に振る気なのか?」
「無音恐怖症を真珠に呼びつけるほど、馬鹿じゃない。
 私が行くほうが、研究しやすいでしょう?」
「俺が嫌だと言ったら?」
「ハーモニーに高等生命体を誕生させたいと思わない?」
「交換条件をつけたらどうする?
 共同研究も魅惑的だが、今抱えている研究もある。
 両立するのは難しい。
 だとすれば今の研究を捨てるしかない」
 ディエンは言った。
「どんな条件?」
「卑劣なことを言うかもしれない」
 幼なじみが遠まわしに断ろうとしていることがわかった。
 自分のやりかけの研究のためでなく、シユイの将来を心配して。
「たとえば、恋人になるとか?
 そんなことで、研究が続けられるなら、かまわない」
 シユイは言い切った。
「真珠はやっぱり高慢だ。
 断られるなんて、初めから思ってやしない。
 無条件で引き受けるよ、女神さま」
「ありがとう、ディエン研究員。
 この感動を、どうあらわせばいいのかしら?」
 パッと顔を輝かせ、シユイは言った。
 これが公共の場所でなかったら、抱きついて親愛の情と感謝を示すところだった。
「…………さあ?」
 少年は困ったようにうつむいた。
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