油性ペン

 暖かな陽光が差しこむ食堂。
 ディエンは紅茶の香りを楽しんでいたところだった。
 昼にしては遅すぎて、夕にしては早すぎる。
 そんな曖昧な時間だったから、食堂は適度に空いていた。
 目の前の恋人は六面体のパズルに夢中だった。
 ヘーゼルの瞳は真剣そのものだ。
 他愛のない物に囚われるのは、昔から変わっていない。
 ディエン自体も変わっていない。
 少女の隣でその顔を盗み見していたものだ。
 食堂の入口がざわついた。
 視線を移せば薔薇の研究院一目立つ恋人たちが入ってきたところだった。
 ヤナとイールンは簡単に食べられる物をトレイの上に乗せて、会計をする。
 こちらに気がついたのか、ヤナが小さく手を振る。
 イールンは無表情のまま会釈をする。
 トレイを抱えて二人はやってきた。
「空いていますか?」
 ヤナはにこやかな笑顔を見せる。
「残念ながら恋人と楽しみ中だ」
 ディエンは言った。
「空いているわよ」
 六面体のパズルをテーブルの上に置くとシユイは言った。
 シユイは立ち上がり、ディエンの隣に座る。
「ありがとうございます」
 ヤナは礼を言う。
 トレイをテーブルの上に置いて、空いた席に座る。
「もっと二人きりでいたい、と思ってほしいものだね」
 ディエンは大げさに肩をすくめてみせた。
「そんなことちっとも思っていないじゃない」
 珍しくシユイが鋭いことを言った。
 椅子を引いて隣に座る。
 金褐色の癖の強い髪から花のような香りがした。
「思ってるさ」
 ディエンは笑顔を浮かべる。
「色眼鏡をするようになったんですね」
 ヤナは目ざとく言う。
「目立つからね」
 深紅の瞳はどこにいても目立つ。
 一度も遺伝子改良をされずに血脈を保ってきた証拠だ。
「せっかく気持ち悪いのに、もったいないわよね」
 シユイは六面体のパズルに再度、手を出した。
「……気持ち悪いですか?」
 ヤナは困惑する。
「完璧すぎて気持ち悪いでしょ?」
 悪びれもせずにシユイは言う。
「これでも誉め言葉なんだ。
 もう気にしていないよ」
 ディエンは紅茶を一口、含む。
「はあ、そうなんですか……」
 いまいち納得できない表情でヤナは言った。
 人の数ほど恋の形はある。
 少しぐらい変わっていてもいいだろう。
 目の前の恋人たちよりは一般的だ。
 ふいに思い立ってディエンはポケットから取り出した。
「これ何だ?」
「油性ペンですね」
 ヤナは言った。
「油性ペンです」
 食事をする手を止めてイールンも言った。
「その様子だと二人とも知らないみたいだね。
 流行に疎いと思っていたけれども、ここまでとは」
 ディエンは悪戯心を隠して言った。
「先輩たちも休憩時間なんですか?」
 何かを察した後輩は言う。
「話を逸らそうと思っても無駄だよ」
 ディエンは器用にペンを指で回す。
「流行は一過性です。
 知らなくても害はないかと思います」
 イールンは淡々とした口調で言う。
「薔薇の研究院一の恋人同士が知らないとはね」
「何時から一番になったんですか?
 ディエン先輩たちん方が目立っていますよ。
 美男美女で、頭脳明晰だって」
 ヤナはビックリしたように言う。
「ここは『ありがとう』と言うべきところらしいのかしら?」
 シユイは顔を上げて、ヤナを見る。
「じゃあ、実践してみましょうか?
 流行っているのには乗らないとね」
 ディエンはシユイの手を取る。
 極上の陶磁器に触れるような手ざわりだ。
 いつまでも、触っていたいと思ってしまう。
 シユイの左手の薬指の付け根に小さく名前を書く。
「売約済みってね」
 とディエンは淡く笑う。
 シユイはしげしげと見つめる。
「はい、どうぞ」
 ヘーゼルの瞳がキラキラと輝く。
 油性ペンを受け取ったシユイはディエンの右手の小指に書く。
 少しくすぐったい感触がした。
「ずっと一緒にいられるって約束よ。
 正解かしら?」
 とちょっと複雑な笑顔を浮かべる。
 油性ペンが返ってくる。
 ディエンは笑顔を答えにした。
 シユイは失敗しなかったことにホッとしたようだった。
「恋人の体に自分の名前を書くんだ。
 場所はどこでもいいんだけどね」
 ディエンは説明する。
「まるで所有の証みたいですね」
 ヤナは言った。
「むしろ罰ゲームみたいです」
 イールンは歌うようにさざめく瞳で、こちらを見る。
「ヤナは否定派みたいだね。
 恋人には自由でいて欲しいタイプかな?」
「……そういうわけでは」
「じゃあ、次はヤナたちの番だ」
 ディエンは油性ペンをヤナに渡す。
 ヤナは油性ペンを持ちながら迷った末にイールンの手の平に名前を書く。
 ありきたりな場所だった。
 後輩らしいといえば後輩らしい判断だった。
「クレンジングですぐ落ちるから」
 とイールンを安心させるようにヤナは微笑む。
 ヤナはイールンに油性ペンを渡す。
「そんなことできません」
 イールンは拒絶する。
「ちょっとしたお遊びだよ」
 ディエンは言った。
「お断りします」
 頑固なところは『良き隣人』の習性だからだろうか。
 地上出身の『シンパシー』持ちの人物には恐れ多いという感情が先立つのだろうか。
「やってみたら?
 そんなに難しく考えずに」
 珍しくシユイが口添えをする。
「ただの遊びなら、やらなくてもいい権利があるはずです」
 イールンはキッパリと言う。
「やりたくない理由でもあるのかな?」
 ディエンは明るい口調で尋ねる。
「ありません。
 ……ですが」
 イールンはうつむく。
 長い黒髪がさらさらと零れ落ちる。
 いじめているようだ。
 これ以上、踏みこむのは野暮というものだろう。
 ディエンは油性ペンを取り上げようとした。
 それに反して、ぎゅっとイールンは油性ペンをつかんだ。
 周囲からの圧力に負けたのだろう。
 ヤナの真似をして手の平に名前を書く。
「これでいいんですよね」
 イールンは油性ペンをディエンに返す。
「落としたくないな」
 まるで宝物を見つめるように、ヤナは呟く。
「誰かに見られる前に落としてください」
 口調は冷淡なものだったが、少女らしい恥じらいが混じっていた。
 この遊びはしばらく流行してそうだ、とディエンは思った。
 恋人同士という主張ができる上に、薔薇の研究院一の恋人同士もしたのだから。
 あやかりたいという恋人たちもいるだろう。
 ディエンは小指を見つめる。
 赤い糸が繋がっている。
 そう信じたくなるようなお遊びだった。
「失敗だったかしら?」
 シユイは尋ねた。
「嬉しくてね。
 ついつい見返してしまったんだ」
 ディエンの言葉に美女は笑う。
「こんなことでいいなら、いくらでも書くわよ。
 それとも、あなたもクレンジングするの?」
「まさか。
 記念にしばらく、手洗いを控えたいぐらいだよ」
「嬉しくなっちゃう言葉ね」
 シユイは言った。
 ディエンは六面パズルに手を伸ばす。
 何度か回転させると色が揃う。
 プレーンなテーブルの上に置く。
「これよりも魅力的かな?」
 ディエンは訊いた。
「完成させるなんて酷いわね。
 ささやかな楽しみだったのよ」
「シユイを夢中にさせるのは俺だけで充分だ」
 ディエンは言い切った。
 幼なじみの女性の不機嫌は解けなさそうだった。
「ごちそうさまでした」
 ヤナは言った。
「まだ食べ途中だと思うけど?」
 ヘーゼルの瞳をきょとんとさせてシユイは言った。
「これ以上、一緒にいるとお邪魔のようなので失礼します」
 イールンも言う。
 二人はトレイを抱えて立ち上がる。
 空いているテーブルに向かう。
「どういう意味かしら?」
 シユイは小首をかしげる。
「早く答えが分かるようになって欲しいな」
 ディエンは苦笑した。
「私だけ仲間外れなのね」
「そんなところも魅力的だけどね」
「『恋』って難しいのね」
 シユイはテーブルに肘をつく。
 面白くなさそうに言う。
 単純な恋があればいいのに。
 出会う前から恋している女性には、なかなか伝われないようだ。
 早く薬指に指輪を通す日がやってくればいいのに。
 ズレた感性の幼なじみと永遠を誓うのは遠そうだ。
 色眼鏡を指で定位置に直して、心の中でためいきをついた。
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