第七章

「このようなものがありました。
 贈り主がわからないのですが、どういたしましょう」
 下官が恭しく盆を差し出した。
 盆の上には、濃い緑の葉がついた枝が一枝。
 爽やかな芳香が漂う。
 そして、枝葉には金剛石のような煌きが残っていた。
「これは、何時?」
「つい、今しがたでございます。
 あちらで」
 下官の言葉を最後まで聴かずに、天河は飛び出した。

   ◇◆◇◆◇

 天印宮の外れ。
 天の川の北の岸辺で、天河は探し人を見つけた。
 空中でキラキラと輝く微細な氷。
 それに包まれるように、可憐な少女が立っていた。
 守りたい。
 胸苦しくなるような衝動に駆られる。
 目を放したら最後、消えてしまうのではないか。
 その存在は、そんな不安を抱かせる。
「姉上。
 来てくださったのですね」
 天河は駆け寄った。
 華奢な体を抱きしめたい、と抑え難い感情が胸に生まれるが、天河は無視した。
 そのような振る舞いをしたら最後、この少女は心を硬く閉ざしてしまうであろう。
 愚か者の天河にですら、容易に想像がついた。
 控えめに氷霧姫はうなずいた。
「ありがとうございます。
 私は果報者ですね。
 今日この時を、私は一生忘れません」
 天河は言った。
 大げさに聞こえるかもしれないが、天河の偽らざる思いだった。
「私もようやく、一人前になりました。
 これよりいっそう精進して、姉上をお守りいたします」
 天河は誓った。
 空にはおあつらえ向きに、天の河。
 己の分身が天空狭しと広がっている。
 綺麗な灰青色の瞳が天河を見上げた。
 微かに空気がふるえた。
 銀の鈴を百万鳴らした音。
 天河が驚き瞳を瞬いた間に、氷霧姫は消えていた。
 ほんのりと冷たい空気が名残。
 天河はその場で立ち尽くした。
 先ほどまで、そこにいたはずなのに。
「姉上……?」
 答えの返ってこない問いを天河は発した。

   ◇◆◇◆◇

 心は貪欲で、枷を嵌めこんで、縛れるものではない。
 精霊は人の子とは違う。
 その心のままに、姿を持ち、その想いのままに、力を持つ。
 誰よりも早く大人になりたいと願った童子は、その力に見合わぬ速さで大人になった。
 大切な方を守るのだ、という想いはさらに力を与えた。
 百万の星を従える天漢の公子――天河は、誰よりも輝く精霊となったのだ。
 その一途な想いに、嘆息をつくものが一人、二人。
 冬の少女らが住まう寒花宮の主も、その一人だった。

 その本性は氷柱である麗しい佳人は、朱塗りの欄干にもたれかかりながら、ためいきを零した。
 雪などと比べるのも無為な白い指先が、凍刃をもてあそぶ。
 泰山すら凍らせる、という剣呑な扇は、叔父である高天が悪戯心を起こして作ったもの。
 天帝の息子の一人である天伯――高天は、仙力甚大な精霊だった。
 手慰みでこしらえたとは言うものの、その扇の威力は凄惨。
 しかも使い手を選ぶときたものだ。
 故あって、今は垂氷公主の所有物であった。
 そのような扇をもてあそんでいるのだから、並みの精霊は公主に近づこうとしない。
 か弱き精霊であれば、一扇ぎで本性すら危うい。
「これ、阿子(あこ)や」
 寒花宮に似合わぬやわい風が吹いた。
 垂氷公主は、面を上げた。
 灰色の空から、麗しい女人が舞い降りてくる。
 虹に輝く霞披は、女人の夫君が手ずから染めたものだった。
 東の果てに住まう古老に糸を譲り受け、一年分の満月の光で染めたという。
「これは母上。
 お久しゅう。
 寒花宮までお出ましとは、何用じゃ?」
「何。
 懐かしい宮を見に来たまでのこと」
 四季の風を司る風香公主(ふうかこうしゅ)は、莞爾(かんじ)と笑みを零した。
 軍事を司る北斗星の精霊――破軍王(ぐんはおう)の妻になるまで、佳人は北風の精霊であったのだ。
 娘である垂氷公主が生まれるまで、この寒花宮で暮らしていた。
 懐かしい宮、であることは間違いない。
「それとも、阿子や。
 何か、心苦しいことでもあるのかえ?」
 風香公主は優しげに問う。
「年頃ともなれば、一つや二つ。
 天の道にもとるとて、隠しておきたいことができまする」
 垂氷公主は凍刃をパタパタと開き、口元を隠す。
「恋の悩みであるなら、この母に教えてたもれ。
 父には内緒にしておくゆえに」
「おお、怖い」
 垂氷公主は肩をすくめた。
 天界の破軍王に隠し事とは、天の荒れる元にしかならない。
 本性が風の者に話すのは、噂を撒いてくれと言わんばかりのこと。
 どちらも空恐ろしい。
「悩みと言っても、妾のことではありませぬ」
「はて。
 では、どちらの恋の行方だろうか?」
 風香公主は欄干に腰掛ける。
 その打ち解けた様子は、間違いなく天河の母であった。
 かつては北風の精霊であったと聞くが、その欠片は見つからない。
「愚か者の恋情」
 垂氷公主は不機嫌に言った。
「おや。
 阿子は、恋を知らぬのだね。
 ああ、でも、恋を知ってしまったら、冬の少女ではおられまい。
 雪と氷の身に、激しき炎は毒じゃ。
 陽光に耐えられぬように、消してしまう」
 気の毒よ、と風香公主は言う。
 冬の少女らは恋をできない。
 春の少女らが真実の恋を見つけるまで、恋を渡るように。
 夏の少女らが恋を相手ごと燃やし尽くしてしまうように。
 秋の少女らが一つの恋を忘れられぬように。
 それは天が決めた定めだった。
 無論、その条理を抜け出すものもいる。
 が、少ない。
「愚かではない、恋など何処にもない。
 恋は、人に目隠しをし、その耳を塞ぐ。
 して、誰の恋じゃ?」
 風香公主は柔らかく微笑む。
 己が決して得られないものだけに、垂氷公主は眉をひそめた。
「天河の片恋じゃ。
 あれは氷霧姫に焦がれている。
 けれども、氷霧姫は氷柱を作っているだけじゃ」
 垂氷公主は言った。
「似合いか、どうかと言うと。
 ほんに似合わぬ二人よのう」
 遠慮なく風香公主は、コロコロと笑った。
「あの小さな子も、恋を知る歳になったとは……、私も歳を取るはず。
 成就を願わなくもないのじゃが、天界一の高嶺の花じゃな。
 鉄壁の砦を崩したくなるは、父譲りじゃ。
 その心意気をかってやらねばなるまい」
 楽しげに風香公主は言う。
 父だけではなく、母にも似たのではないのか。と垂氷公主は思ったが、口にするのも煩わしく、母の言葉を流した。
 水と風は流れ去るという良く似た性質ゆえに一緒にされるが、風は炎にも近いのだ。
 陽気なときの風は、たちが悪い。
 本性が水に属する垂氷公主は、げんなりとしてしまう。
 飯事(ままごと)のような恋であっても、当人にとっては大切な宝だろう。
 叶う、叶わない、いずれにせよ、誰にもふれられたくない事柄だ。
 本人のいないところで、面白がられるのは不快だろう。
 ……もっとも、天漢は風にも炎にも通じるもの。
 話が合うやも知れぬ、と垂氷公主はためいきをついた。
「おや、阿子や。
 どうしたのかえ?
 顔色が曇っておる」
「もとより、このような顔にございます」
「そうであったか?
 まあ、良い。
 それで氷霧姫は、どう思っているのじゃ?」
「せっかくこちらにいらしたのです。
 ご自分でお確かめになっては?」
「履氷堂は好かぬ。
 あの堂は氷花も好んだが、立ち入るのが躊躇われた。
 踏み込んだが最後、帰っては来れぬような。
 そのような気がするのじゃ」
 風香公主は霞披の端を握り締める。
 なにやら、嫌な思い出があるらしい。
 風の気質の者が覚えているということは、衝撃的な出来事があったのだろう。
 寒花宮の勤めの長い者に言わせると、氷花公主と氷霧姫は良く似た母子であるそうだ。
 大方、北風の少女であった母が、氷花公主の逆鱗にふれたのだろう。
「当人ではない妾に尋ねられても、答えは出ませぬ」
「ここで気をもんでいたではないか。
 何も知らない者は、気をもむということすらできぬ」
「氷霧姫の心がわからぬ故に、気をもんでおりました。
 袖にするなら、早いところしてくれれば良いと。
 天河には少し悪うございますが、思っていたところじゃ」
「弟が可哀想だと思わぬのか?」
 風香公主は尋ねた。
「氷霧姫が今の姿になったのは、いつの頃でしたか?
 いくら、力ある精霊の成長は緩やかだとはいえ、氷霧姫は所詮『姫』。
 『公主』と呼ばれるほどの力はございませぬ。
 でしたら、あの姿は答えにございましょう」
 垂氷公主は忌々しげに呟いた。


 精霊にとって、願いは力となる。
 時を止めていたいと強く強く願えばそのようになる。


【氷の中の花】へ > 第八章へ