第十章



 天印宮の堂の一つで、同じ歳、同じ月生まれの従兄弟たちは、囲碁に興じていた。
 天の川の涼やかな水音が碁石を置く音と重なる。
「どうした? 降参か?」
 白石を弄びながら、天弓王の彩虹が尋ねる。
 碁盤の黒石は追い詰められていた。
 置く場所はまだあったが、どの筋で打っても早晩手がつきることだろう。
 天印宮の主、天河は膝の上の拳を握り締める。
 後れを取ることは悔しいが、仕方があるまい。
「ありません」
 天河は頭を下げた。
 囲碁を楽しむ上の決まりとはいえ、愉快ではなかった。
「何もそこまで悔しがることはなかろう。
 勝ち負けにこだわるのは、己の器の小ささを言いふらすようなものだぞ」
 彩虹は白石を集め、緑の釉薬(ゆうやく)が趣を添える壷の中に入れていく。
「喧伝(けんでん)したつもりなぞないわ。
 十回やって八回も負ければ、誰でも機嫌の一つや二つ悪くなるだろう」
「手を抜けば、天河は怒るのだろう?」
「当たり前だ」
 天河は黒石を集める。
「では、どうすればいい?」
「彩虹の腕前を賞賛することはあれど、妬むつもりなどない。
 ただ、己の浅慮さを厭うているだけだ」
「天河が負けるたびに不機嫌になる、という点に置いて、あまり変わらないぞ」
「こればかりは諦めてもらうしかない」
 天河は集め終わった黒石を壷の中へ入れる。
 シャラシャラと石が打ち合い、軽い音を立てる。
「彩虹が強すぎるのだ」
「将たる者が求められるは、腕っ節の強さだけではない。
 ある程度の機知を求められる」
「私とて父の子であれば、もう少し強くなりたいと思うが……こればかりは」
 天河は最後の黒石を壷の中へ落とす。
「強さを測るのは、これだけではないだろう。
 たとえば、女性を守るのも強さだ」
「おぬしときたら、二言めには女の話だ。
 他に語るべきものを持たないのか?」
「政を語るよりも、実のあることだろうよ。
 思想の違いは時に刃を交えることになるだろうが、女の好みの差は一笑で終わる。
 実に平和だ」
 彩虹は得意げに笑う。
 軽薄に聞こえる話だが、一理ある。
 自分よりも早く成人した従兄だ。天廷では何かと言われがちな地位だけに、苦労もあるのだろう。
「そういう考え方もあるな」
「好きではない、と顔に書いてあるぞ。
 まあ、女好きの天漢公子というのも無理のある響きだな。
 叔父上からして……」
「ご歓談中、失礼します!」
 下官が額に汗を浮かべながら走ってきた。その装束から天廷からの使いだとわかる。
 若き天界の貴公子たちは目配らせあう。
「火急の知らせにございます」
 書状が天河に差し出される。
 天河は立ち上がり、それを受け取ると中身を改める。
 一読では意味が取れなかった。
 三度読んでそれが誤りでないと知り、天河は血がスーッと下がっていく音を聞いた。
「何があった?」
「……叔父上が謹慎だそうだ」
 天河は書状を元の形に折りたたむ。手が震えているのに、何故か綺麗に折ることができた。
「それだけか?」
「寒花宮で起こした事件で、だ」
「……そうか」
 彩虹はそれ以上、問いを重ねなかった。


 天河はいくつかの橋を渡り、薔薇の咲く庭院(なかにわ)へとたどりつく。
 天の川に身を投げるように咲く花の色は、薄い紅色。銀の光を宿した水に親しげに花弁をふれさせている。この河の水は芳香に富み、近くの堂を清めるのに使われている。
 成人前に姉上に差し上げた花に相違なかった。
 あの時と良く似ていた。
 混乱しながら、一番美しい花を手が探す。
 けれど、状況は異なっている。
 天河にとって高天は、ただの叔父ではない。『天漢公子』の位を譲り受けただけではなく、天人としての振る舞い、生き方を肌で教えられた。早いうちに二親から離れた天河にとって、師父と仰ぐべき存在だった。
 飄々(ひょうひょう)としてつかみどころのない性質の方ゆえに、こちらもことさら構えたりはしなが、それでも尊敬に値する人であった。
 その叔父が姉上を傷つけたとは、にわかには信じられぬことであった。
 初恋の君の忘れ形見として、叔父は氷霧姫を気にかけていられた。
 あの叔父上が……と、天河には意外だった。
 天河の手は花を摘む。
 寒花宮にいる姉上を慰めようと、籠いっぱいになるまで摘んでいた。

   ◇◆◇◆◇

 寒花宮は常に訪れるのとは違い、絶望感を感じさせるたたずまいであった。
 寄るものすべてを拒む。
 冬の少女らが死と絶望を糧とするといえども、常軌を逸していた。
 『拒絶』という言葉がある。
 彼女らのつれなさを皮肉るときに使われることが多い。
 だから、天河は気に留めていなかった。
 天人たちが語る冬の少女らの『拒絶』を。
 寒花宮が天の川の北の岸辺にあるためか、天漢童子と天漢公子にはいつも歓迎されていた。
 生まれて初めて、冬の少女らの『拒絶』を知る。
 打ちのめされ、一歩も進めなくなる。気の弱い精霊であれば、消し飛んでしまうほどの重々しい空気が辺りに立ち込めていた。
 この先にあの方がいる。
 天河は歩を進めた。


 正門をくぐると、冬の少女らが雪や氷雨のように、霞披を手にふわふわと舞っていた。
 氷のように冷たい美貌の少女らがにこりとも微笑まないのは、いつものことではあったが、今日ばかりは身の置き場を探してしまう。
「天河か。
 よう来た」
 垂氷公主がその労をねぎらう。鼻のつくような物言いではないことに、天河は軽く驚いた。
「こちらじゃ」
 その手にあった扇はご自慢の『凍刃』ではなく、ただの象牙の扇であった。
 いくつかの回廊を渡り、奥へと向かう。
 やがて、垂氷公主は扉の前で立ち止まった。
 そこは履氷堂ではなく、寒花宮の主楼の一室であった。
「あのような場所に、一人きりにしてはおけぬ」
 天河の表情を読んでか、垂氷公主は困ったよう言う。
「お加減がそんなに……」
「さて、妾にもわからぬ。
 氷霧姫、入るぞえ」
 垂氷公主は扉を押し開いた。
 客室としてありがちな設えの中は、空だった。
 気配というものが一切ないのだ。
「これは」
「この部屋の中に、あの者がいるのは確かじゃ。
 ただ、とうとう目にも留まらなくなった……。
 妾はなんと無力であろうか。
 守ってやれなんだ」
 垂氷公主は宙空に手を伸ばす。
 名の通りであれば、姉上の本性は氷霧。
 金剛石のような微細な氷を宿す霧のはず。
 陽光を浴び綺羅と輝くうちに消えていく冬の朝霧だ。
「そなたの声ならば、反応するやもしれぬ」
 垂氷公主は、弟を見る。
 その双眸はすでに諦めが宿っていた。
 天河は頭を振る。
 あってはならないことだ、と心が告げる。
 本性が目に留まらなくなるなど。
 精霊はその本性をもって、姿をなす。
 確かに風は目に映らぬだろう。けれども、風は他者を動かすことで、人の目にも移ることができる。風という存在を疑うものなどいない。
「姉上」
 天河は呼ぶ。
 他者によってしか形作られないというならば、己自身が動きかければいい。願いは形になるのだ。
「花をお持ちいたしました」
 薄い紅色の薔薇の入った花かごを宙に向かって見せる。
 儚い方だと一目見たときから、思っていた。
 身にまとう色彩も、その控えめな仕草も、今にも消えそうだと思っていた。
 天河がそう感じるたびに、その本性は力を減らしていったのだろうか。
「姉上にお目にかけたいと思い、摘んで参りました」
 心の中で、儚げな従姉姫の姿を描く。
 身の丈は天河の肩の辺りだ。
 寒色の衣に包まれた手足のつくりは華奢。
 雪のように白い髪は乱れなく三つ編みにされ、背を流れる。
 白い面の中、唇だけがほんのりと色を持つ。
 化粧でつくられたものではなく、淡い薄紅色だ。
 そして、物悲しそうな瞳は灰青色。
 氷の中に閉じ込められた勿忘草のような色だと思ったのは、ずいぶんと昔のことだ。
「姉上」
 天河が呼ぶも、何も変化は訪れない。さすがの垂氷公主もためいきを零す。
「そう都合の良いようにできてはいぬか。
 天河、許してたもれ。
 無駄足じゃったようだ」
「いえ、懐かしい花が咲きましたゆえに、お届けにあがったまでのこと。
 お気になさらずに。
 これからも、こちらへ立ち寄らせていただいてもよろしいか」
 花かごを卓の上に置く。
「お心遣いに感謝する」
 矜持が高いことで有名な垂氷公主が頭を下げる。
「礼には及びません」
 姉上と親愛する姿を探して、天河はもう一度、虚空を見上げた。


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