第十二章



 誰かが熱心に呼ぶ。
 どこかへ消えてしまいたい、と思っていたのに。
 それ以上の熱意が呼ぶ。
 答えなければいけないような気がする。
 その声が真剣で、苦しそうだから、そう思うのかもしれない。
 消えてしまいそうだった、自分が帰ってくる。
 強い思いは外枠を作り出し、閉じ込めようとする。
 わずかな風の流れにすら、揺り動かされるそれが本性であれば、仕方がなきこと。
 形作られる。
 そのものが望むとおり、描くとおりに、思考まで染め上げられる。
 懐かしい音の綴りが生み出す。

 朝霧は目覚めた。

 眠りにつく前と、世界はそう変わっていないように見えた。
 どうして帰ってきてしまったのか。揺るぎやすい己を疎ましく思う。
 強い風があればそれに流される。熱い火があればそれに消し去られる。
 双方を持つ天漢に敵うはずもなく、またここへ戻ってきてしまった。
 夜空に煌く星を宿す双眸と目が合う。
 姿が溶けている己が見えるはずもないのに、視線が絡む。
 どうして、かの公子はこれほど熱心に想うてくれるのか。
 朝霧にはわからない。
 従姉弟というなら、天にそれこそ星の数ほどいよう。
 見目麗しい天少女はいかほどいるだろうか。才豊かな仙女は数多にいるだろうに。
 綺羅と輝く天漢公子に似合いの女性は、他にいるはず。
 それなのに、どうして……。
 花をくれるのだろう。
 名を呼ぶのだろう。

 そして、それをどうして自分は、こんなにも嬉しく思うのだろう。

 彼女は、手をそっと重ねた。

   ◇◆◇◆◇

 ひやりとした空気が流れた。
 風すら遠慮する部屋の中で対流が起こったのだ。
 それが目に映る。
 真っ白な霧だ。
 それはかつてのように剣呑な氷刃を宿してはいなかった。
 やわやわとした優しい霧だった。
 音もなく、霧は姿をとる。
 天河が心の内で描いていた姿のように、華奢な女人が立っていた。
 佳人は小首をかしげ、それから天河を見上げた。
 たった今、目覚めたような双眸は、薄青色だった。
 霞がかった春の空、花の色だ。
 勿忘草そのものの色だった。
 そこにはかつて見た暗さの変わりに、軽やかな光があった。
 天河が思い描いた姿とは、違う。
 その一点だけが違い、全部が違う。
「花をお持ちしました」
 天河の口は言いなれた言葉をつむぐ。
 薫り高い蘭を青年は手渡す。
「ありがとう」
 少女はかすかに笑む。
 零れ落ちんばかりの愛嬌(あいきょう)に、花のほうが恥じ入ったようだ。誇らしげに咲いていた蘭の花は、その色艶を失う。
 天河は何と呼べばいいのか、逡巡する。姉上と呼ぶべきか、その名で呼ぶべきか。
 明るい色の双眸の前で途惑った。
「また……、こちらへ来てもかまいませんか?」
 童子であった頃と変わらぬことを尋ねる。
 未来は、もっと先のことだと信じていたから、考えてみてもいなかった。
 即興で気の利いた言葉を綴るほど、天河は経験を重ねていなかった。
 従姉姫は緩く首を振った。
「垂氷公主に怒られてしまいます」
 細く澄んだ声が言う。
 困ったように小首をかしげ
「きっと、怒られます」
 くりかえし呟いた。
「ご迷惑ですか?」
「……お時間をくださいませ。
 あと十日。
 自ずと答えは出ましょう」
「十日後など、わずかな時間。
 天河は、いくらでもお待ちいたします」
 青年は言った。

 
 十日後、寒花宮。
 天漢公子は、七枚の花弁を持つ白い花を携え訪れた。
 永い時間、その目覚めを待った女性との約だ。違えるはずもない。
 従姉姫に逢いにきた天河を阻むように、垂氷公主が回廊の一つで待っていた。
「いそいそと漢らしくもない。
 それでは使いっ走りのようではないか。
 仮にも、天漢を司どる精霊であるというのに、その気概(きがい)はどこへ行ったのじゃ」
 凍刃を手にした垂氷公主が呆れたように言う。
「好きなようにおっしゃれば良い。
 私は気にせぬ」
 天河は言った。
「恋とは、ほんに愚かじゃ」
 妙齢の女人は閉じていた凍刃を片手で開くと、口元を隠す。
「誰も彼もが愚かになりおる。
 それでいて、皆幸せそうな顔をしおる。
 寒花宮にはまったく似合わぬ」
 苛々しながら垂氷公主は回廊を歩き出す。
 冬の少女らの統領に相応しい考え方であった。
「私は恋など……」
「その想いはただの思慕とでも、言うのかえ?
 天漢公子も所詮はその程度とは、笑えもせぬな」
「純粋に、慕っているのです」
「誰に言い訳しておるのじゃ?
 そなたの想いは明白。天界中、響き渡っているわ。
 それとも、一時の遊びであったか」
「遊びなどではありませぬ」
「では、何にしりごみをするのじゃ?
 漢らしゅう責任を取るがよかろうよ。
 そなたのせいで、あの者は目覚めたのじゃ。起こした責任ぐらい取ってやるがよい」
「責任?」
「八十一人も妃をもてるのじゃ。一席ぐらい埋まったところで、問題なかろう」
「何を!」
「そのように大きゅう声を出すでない。皆が驚く。
 この度の顛末(てんまつ)を、この天界で知らぬ者などいないのじゃ。
 愚かな天河にもわかるじゃろう?
 可哀想に二度と結婚の申し込みを受けることはできないじゃろうな。天漢公子と争うような気概のある者は少ない。多くの者は、己の身分や格を考え、自重するじゃろう。
 残りの一生を独り身で過ごせと。情なきことを言ってくれるではないじゃろうな?」
「この度のことは、私一人の問題。姉上には関係ありませぬ。
 第一、申し込みのすべてに答える必要はありませぬ。
 冬の少女らが天人を袖にするのは、それこそ毎年のこと。噂など、すぐさま消えましょう」
 天河は言った。
「冬の少女であれば、珍しいことではない……か。
 そのような曖昧な態度では、逢わせるわけにはいかぬ」
 垂氷公主は行く手を遮るように、天河の前に立った。
 履氷堂まであと少しであった。
「姉上、姉上と呼ぶが、本当に姉弟ではありまい。
 白々しい。
 そうやって綺麗ごとを並べて、どうするつもりじゃ。
 己が傷つかぬように、壁を築いているのじゃな。
 恋でないと言っていれば、振られたところで体裁が整う。
 天河は実に、不誠実じゃ」
「姉上を困らせたくないのです」
「欺瞞(ぎまん)じゃな。
 やはり不実じゃ。恋に、真などありはせぬ。
 戯れるのなら、春の少女らとせよ。
 婀娜(あだ)なひらひら胡蝶(こちょう)が遊んでくれるゆえ、楽であろう」
「戯れなどで、ここまで苦しんだりはせぬ!
 真だからこそ」
 凍刃が天河の言葉を遮る。
 一扇ぎで泰山を凍らせることができるという宝重。この距離で力を放たれたら、さしもの天漢公子であってもひとたまりもない。
 天河は驚き、同じ腹から生まれた姉を見た。
「続きは、当人のいるところで言うが良い。
 ほんに恋は愚かじゃ。
 妾は御免こうむる」
 垂氷公主は肩をすくめ、凍刃をたたむ。
 天河はゆるゆると理解する。
 時間は永遠ではない。また、かの人が失われる日がくるのだ。言葉を惜しみ、己の無力を嘆くのは、一度きりでいい。
「何を呆けている?
 履氷堂は、あちらじゃ。
 妾は寒花宮の主ゆえに多忙じゃ。童子ではあるまい、一人で行くがよい。
 申し出の言葉は素直が一番じゃ。
 あまりに飾ると偽りのように響くゆえにな」
 大仰に垂氷公主はためいきをついた。
「そうじゃ、忘れるところであった。
 精霊の時間は、地上とは異なる。
 心せよ」
 言いたいことを言うと、垂氷公主は来た道を戻っていった。


 履氷堂の薄氷張る池のほとりに、人影があった。
 心が浮き立ち、天河は残りの距離ももどかしく走った。
 立ち込める真白な霧の中から、かの人を見つけ出し、青年は言葉を失った。
 二人の間をひんやりとした霧が過ぎ行く。
「驚きましたか?」
 匂うような乙女は尋ねる。年の頃は、十七、八歳。
 天河の知る従姉姫と異なっていた。
 背も伸び、女性らしい丸みを帯び始めた体つき。悲しくなるほど冷たい貌は、親しみやすい優しげな顔立ちに。
 朝霧から想起される柔らかな姿であった。
「こちらが本来のお姿なのですね」
 天河はゆるく息を吐き出した。
 天孫女であれば美貌は当たり前とはいえ、輝くばかりの美しさだった。天界一の美しさは他に譲るとして、その可憐さにおいて追随(ついずい)を許さないのではないだろうか。
「花をお持ちしました。
 天廷だけで咲く花です」
 青年は七弁の花をつける枝を渡す。
「ずっと、不思議に思っていました」
 白い優しげな手が花枝を受け取る。
 勿忘草色の瞳が天河を静かに見た。
 肩にかかる白い髪がサラサラと零れ落ち、白い首すじが襟からのぞく。
「どうしてお花をくださるのか。
 考えても、答えがわかりません」
 無垢な問いに、天河の胸は締めつけられる。何も知らないから許される言葉は、ひどく魅惑的であった。
「あなたの笑顔が見たいからです。
 ご迷惑ですか?」
 天河は、十日前と同じ問いをした。
「……難しい問いです。
 否応、どちらも当てはまります。
 十日の間、垂氷公主に叱られてしまいました。
 天の名だたる方も、みな呆れてらっしゃいました」
 とてもたくさん怒られました、と乙女は眉をひそめた。
 幼子のように稚い仕草に漂う柔媚。不思議と恋の駆け引きから遠い。
「十日前の答えは、いただけますか?」
「……諦めてくださると思っていました」
「十日では短すぎます」
「私は、あなたが望む姿ではありません」
「悲しむ必要などないでしょう。
 ありのままの姿を拝見することができ、嬉しゅう思うております」
「天漢公子は、お優しい」
 そう言うと従姉姫はうつむいた。半ば伏せられた瞳の端に、透明な珠が浮かぶ。
「そのようなことなど、夢絵空。
 ……十日。消え去ることのできぬ、己の弱さを恨みました」
 白い頬に珠が一筋、滑り落ちる。
「姉上」
 ふれようと手を伸ばしたが、柔らかな霧に邪魔される。
「何故そのような悲しいことをおっしゃるのですか?」
 天河は霧を押しのけ、乙女の体を抱き寄せた。
 消えてくれるな、と強く願いながら、細い体を抱く。
 強い流れに濃密な霧は、複雑な斑紋を描いた。
「私では、姉上のお役に立てませんか?」
「どうして、お花をくださるのですか?」
 胸の中で儚げな女人がささやく。
 先ほどと同じ問いかけだった。
 二人の距離が縮まり、霧に包まれていたころよりも、言葉が含む意味が明確になる。
「ずっと閉じこもってきました。
 氷の中であれば、誰も踏み入れることはできない、と。
 亡き母との約束もありました」
 朝霧はハラハラと涙を零す。繊細な睫毛(まつげ)を飾り、すべらかな頬を濡らし、天河の胸を甘く揺する。
「母の言いつけどおり、恋を知らずに、消えていくつもりでした。
 氷霧は、誰も知ることなく消えるのが定め。
 それなのに、溶けずにいる」
 なじるというには、苦しげな響きの言葉。
 乙女の「消えたい」という願いが霧の中でキラキラと輪唱する。金剛石の小片のように、かすかに打ち合い、光を放つ。
 涙に潤んだ薄青色の瞳が天河を見上げる。
「私のために消えずにいてください。
 ……私は、あなたを愛しているんです」
 天河は言った。
 乙女は力なく首を振る。
「初めてお逢いしたあの日に、私の心は決まっていました。
 私を哀れとお思いになるのなら、消えないでください。
 身を切られるよりも、辛い」
「……消えてしまえば良かった。
 これから私は、悲しみと苦しみを知るのですね。
 公子の手によって」
 聞き落としてしまいそうなささやきが答え。
 そう気づくまで、天河は一瞬きの時間を要した。


 花 氷柱の中に在り
 枯れぬ花を氷柱の傍で見やるか
 恐れず 氷柱より 花を摘むか
 天漢公子 どちらも選ばず
 花 自ずから氷を解くことを望む
 


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