U・神の愛娘

Wo soll ich mich denn wenden hin?


 やがて、馬車は王都についた。
 賑々しく出迎えられながら、王女の不安は増していった。
 初めて見る城は、大きく、天をうがつようで、人間の驕りのように見えた。
 城の内側は華美で、人間の欲望に思われた。
 慎ましく生きてきた王女にとって、人工的な美しさは毒であった。
 謁見の間は、贅の最たるものだった。
 玉座には国王と王妃。
 居並ぶ家臣たちはきらきらしい装いで、目がくらみそうだった。
 恐怖で指先が凍りつく。
 ここはなんて恐ろしいところなのだろうか。
 誰も気がついていない。
 それが恐怖に拍車をかける。
 王女の気持ちを知らず、式次第は進んでいく。


「待ちわびたぞ、セルフィーユ」
 テーオドール国王は玉座から降り、娘を出迎える。
「どうだ?
 長旅で疲れていないか?」
「お気遣い、ありがとうございます。
 ここまでの道中、とても快適でした」
 セルフィーユは頭を下げる。
「ああ、こういうときはベールが邪魔だな。
 顔を見せておくれ。
 可愛い娘よ」
 国王は親しげに言う。
 その様子に、玉座に傍に座す王妃も涙ぐむ。
 次の瞬間、王女の体がかしいだ。
「王女!」
 すぐ傍に控えていたレフォールは、その細い体を支える。
 ベールがするりと床に落ち、明るい灯燭の下、少女の容貌が明らかになる。
 一瞬で閉じられた瞳はサファイアの青。
 流れる髪は金の糸。
 飾りのない衣装が清楚な容貌をさらに神聖なものへと変える。
 素早くベールを拾い、レフォールは少女の姿を隠した。
 ほんのわずかの間だったが、貴族たちの目には十分だった。
 ざわめきが巻き起こる。
 吟遊詩人が歌う聖王妃アネットのように、美しい王女。
 この夏で16歳になる第一王女。
 その価値はどれほどのものか、この場に居合わせた人間たちは良く知っていた。
「私がついていながら、申し訳ございません」
 レフォールは王女を抱きかかえたまま、頭をたれる。
 腕の中の存在は、まるで羽のように軽い。
 このまま掻き消えてしまうのではないか。
 そんな不安がよぎる。
「良い。
 初めての旅で疲れたのだろう。
 誰ぞ、案内を!」
 国王の言葉に女官長がまろび出る。
「銀の騎士レフォール。
 王女を部屋に連れて行ってもらえるだろうか?」
「はい」
 国王の言葉に青年はうなずいた。


 それから2日間、王女は熱で苦しんだ。
 祝賀ムードは一気に崩れ、人々の顔には不安が浮かぶ。
 どんなに国王が明るく振舞おうとも、話は漏れ広がる。
 一刻も早いお披露目を、と重臣たちは焦りだした。

 王都でのローザンブルグ公爵の居城にて。
「銀の騎士さまはどちらへお出かけ?」
 襟の広がったドレスを身にまとった華やかな乙女が笑う。
「王宮へ」
 レフォールは簡潔に答えた。
「私も連れて行ってくださる?」
 ラメリーノは魅惑的な笑みを浮かべる。
「襟のつまったドレスを着るのなら、かまわないが」
「古風なドレスは、ローザンブルグだけで十分よ」
 従姉姫の笑みは苦笑に変わる。
「では、ベールを」
「それも嫌。
 何のために、王都に来たのかわからなくなるじゃない」
「母上は、どちらも着てらっしゃる」
 自由気ままな従姉姫に、レフォールはためいきをつく。
「伯母さまは古風な方ですもの。
 公爵以外の殿方の視線を受けるのは、嫌なんですって。
 独身の頃は、どうしていらっしゃったのかしら?」
 表情がころころと変わる乙女は、楽しげに笑みを唇にのせる。
「せっかく美しく生まれたんですもの。
 たくさんの賞賛を浴びたいわ」
「将来の夫君に頼むと良いだろう。
 百の心無い賛辞よりも、一の真摯な言葉、だと聞いたが?」
「残念ながら、私には真摯な言葉を捧げてくださる殿方はいないのよ。
 あなたのせいでね」
 象牙の扇子をもてあそびながら、ラメリーノは言葉を続ける。
「ローザンブルグのうるさ型は、私をマイルーク子爵夫人にしたがっているのよ。
 あなた、知らなかったでしょう」
「初耳だ」
 レフォールは驚く。
 古き血を尊ぶローザンブルグでは、従兄妹同士の結婚は珍しくない。
 年のつりあいも取れているのだから、周囲がそう願うのも不思議ではなかった。
 けれども、レフォールには他人事のように思えた。
 それは従姉姫も同じことだったらしい。
「でも、私はそんな退屈は嫌なの。
 早く結婚して、私を自由にしてちょうだい」
 ラメリーノはためいきをつく。
「そうは言っても……」
「相手なら、いるじゃない。
 白薔薇姫をいただけばいいのよ」
 名案だ、と貴婦人は言う。
「何を……!」
 記憶と呼ぶには鮮明な輝き。
 一重の白薔薇のように、清らかで、可憐な姿の少女。
 ほんのひとときだけ絡んだ視線。
「騎士の中の騎士レフォールなら、国王陛下も意志がぐらつくかもしれないわ。
 白昼堂々、謁見の間で姫を抱きしめたのでしょう?
 噂になっているわ。
 そして、これからお見舞いでしょう?」
 からかうように、ラメリーノは笑う。
「国王陛下の命だ。
 やましいことなどない」
 レフォールは断言した。
「そう、残念ね。
 王宮へ行くのは諦めるわ。
 魅力的な噂話を仕入れてきてね、従弟殿」
 

 レフォールが王女の私室の一角に来ると、人々は手を止め、すがるように青年を見た。
 張り詰める緊張感に、青年は眉をひそめる。
「マイルーク子爵」
 女官長がほっとした表情で声をかけてくる。
「王女のご機嫌伺いに参りました」
「ええ、ちょうどよろしかったわ。
 ガルヴィ侯爵令嬢もいらっしゃるの。
 これで王女のご機嫌も麗しくなるでしょう。
 どうぞ、こちらへ」
 優雅な仕草で女官長は招く。
「まだ熱が下がらないのですか?」
 レフォールは心配になった。
 重い病人の元へ見舞いに行くのは、相手の負担を増やすだけだ。
 日を改めたほうが良いのだろうか。
「いえ。熱の方は下がったんですが……。
 どうにも、話を取り合ってくださらなくて」
 年配の女官長はためいきをついた。
「……何故?」
 青年は不思議に思う。
 3日間というわずかな間で、交わした言葉も少なかったが、王女は人の話を聞かないような人物とは思えなかった。
 言葉を選ぶように語る姿、真剣に耳を傾ける姿。
 華やかな印象こそなかったが、穏やかな人柄が見て取れた。
 神に仕えていた人だけあって、祈りを欠かさず、信仰に背かないように努力する姿は、好ましく思えた。
「この先ですわ。
 陛下からお許しをいただいております。
 どうぞ、お先にお進みくださいませ」
 女官長は慇懃に礼をした。
 尋ねたいことがあったのだが、レフォールは先に進む。
 寝室にいたる控えの間に、見覚えのある女性が扉を守るように立っていた。
「ガルヴィ嬢、お久しぶりです」
 レフォールは言った。
「銀の騎士レフォール」
 王都の最先端のドレスをまとった貴婦人は、笑みをこぼした。
「お見舞いに参りました。
 王女のお加減は、どうですか?」
「熱は下がったのですが……。
 ここの女官たちは、王女のベールをすべて取りあげてしまったんです。
 それどころか、髪を結い上げようとまでするのです。
 何も知らずに」
 ガルヴィの声は恨むように低く、小さかった。
 青年は密やかに息づいた花のような痣を思い出す。
 真っ白なこめかみに、真っ赤な痣があった。
「レフォールさまは……見てしまいましたか?」
「はい。間近でしたので」
 レフォールは声をひそめる。
「生まれつきなのです。
 あの痣のせいで、王女は王宮から遠ざけられたと、噂までされていました。
 だから、王女は余計に……」
 ガルヴィは言葉をつまらせる。
 感情豊かな侯爵令嬢の双眸に涙が浮かぶ。
「王女に贈り物をすると約束したのです。
 我が地方伝統の織物で、今の王女のお役に立つと思います」
 レフォールは綺麗な包みをガルヴィに手渡した。
「これは?」
「王女が必要としているものです」
「あ、……ありがとうございます!」
 ガルヴィは子リスのように、包みを抱えて扉の中に入る。

 それから数分後、レフォールも中に招かれた。
 ちょうど腰のあたりまでのベールをまとった少女が椅子に座っていた。
「ありがとうございます」
 首飾りにふれながら、王女は礼を言う。
 古風なローズベージュのドレスが白い肌を引き立て、わずかに見える指先が美しかった。
「お気に召していただけたのなら、光栄です」
 レフォールの言葉に、微笑む気配を感じた。
 重苦しいベールと違って、ローザンブルグのベールは貴婦人たちの表情をかすかに伝える。
「このベールは素敵ですね」
 裾についた飾り玉に王女はふれる。
 朝靄のようなベールの裾には、朝露を模したガラス玉がいくつもついている。
「とても軽いベールですので、そうして錘をつけないことには外へ出られません」
 元気そうな姿に、青年は安心した。
「どうしてですか?」
 セルフィーユは首を傾げる。
 それに合わせてガラス玉が揺れる。
「ベールが風に飛ばされてしまうからです」
「大変ですわね」
 少し考えてから、少女は呟いた。
「室内では、飾りのないものを身に着ける方々も多いです」
「ローザンブルグでは室内でもベールを被る方がいらっしゃるんですか?」
「私の母もそうです。
 若い女性の中には、その習慣を厭う方も多いです。
 だから、半々というところでしょうか」
 青年は言った。
「レフォールさまの故郷へ行ったら、私は目立たずにすむのですね」
 楽しげに少女は言った。
 穏やかで静かなローザンブルグ地方。
 多くの貴族の避暑用の別荘があり、王家の離宮もある。
 その中でも、とりわけ美しいとされるマイルーク領。
 そこで微笑をたたえながら散策する白薔薇姫。
 夢見るように美しい光景だろう。
 それを間近で見守る自分……。
「あの……?」
 困ったような視線を感じ、レフォールははたと気づく。
 不敬なことを想像した、と己を恥じる。
「そうですね。
 王家の離宮もありますから、一度訪れてみるのも良いでしょう」
 青年は無難な答えをひねり出す。


 帰る間際、女官長から耳打ちされ、レフォールは国王の私室に急いだ。
 あちらへ、こちらへと、ずいぶんと振り回されている。
 王家に忠誠を誓った身だがここ数日の激動に、ややくたびれていた。
 第一王女の帰還は、喜ばしいことのはずなのに、歓迎されていない。
 王宮でも、天でも。

「娘は、どうだった?」
 窓辺に立ち尽くしていた壮年の男性は、銀の騎士を手招きする。
 国王の視線の先は、薄曇りの空。
「元気を取り戻したようにお見受けいたしました。
 ですが、パーティなどにご出席するのは、難しく思われます」
 レフォールは感じたことを正直に告げる。
「あと一度だけ、人前に出てもらおうと思っている。
 それが終わったら、再び娘の自由を与えようと考えている」
「そうですか」
 青年は安心した。
 王女が何かに我慢するように、何度も首飾りにふれていたことが気になっていた。
「この2日間。
 娘は泣きながら『帰して』と叫んでいたそうだ。
 やはり、セルフィーユにとって、ここは家ではないのだな」
 自嘲気味にテーオドールは言った。
 レフォールは口を引き結ぶ。
 清輝なる王女が泣くほどに乞う。
 先ほどお目にかかったときは、己を律していたのだろうか。
 気がつくことができなかった。
「大神殿を出て、まだ5日間です。
 時期に慣れていくでしょう」
 諦めるには早すぎる。
 まだ何も始まっていない。
「いや、私にはわかってしまったのだよ」
 国王は緩く首を振る。
「そなたがマイルーク子爵であることが救いだな。
 娘をもらってはくれまいか?」
 テーオドールは言った。
 まるで政略のような結婚を勧める。
 結婚とは、献身と互いへの愛で成り立つもの。
 こういった場で、決められることではない。
「何をおっしゃいますか、陛下」
「ローザンブルグであれば、娘は目立たずにすむだろう」
「確かに、その通りでございますが。
 ローザンブルグには王家の離宮もございます。
 何も、私のような者の妻にならなくても――」
「ソージュに息子が生まれ、私に娘が生まれた。
 ちょうどいい年周りだと私たちは笑いあった。
 それが叶うのだ。
 何の不満があるだろうか」
 国王は言った。
 自己欺瞞をしようとしている壮年の男性に、レフォールはかける言葉を見失う。
「お披露目をかねたパーティで、婚約を発表する」
 テーオドールは言った。
「いくらなんでも、早すぎます!
 王女のお気持ちはどうなるんですか?
 父に捨てられた、と思い込まれるかもしれません。
 お待ちになってください。
 今しばらく、家族らしい思い出をお作りになってからでも、遅くはありません」
 レフォールは意見した。
「王命だ」
 国王は振り返り、臣下を見据えた。
「……謹んでお受けいたします」
 苦い気持ちを飲み込んで、レフォールは言った。

 ◇◆◇◆◇

 王宮はとても息苦しかった。
 泣いても、泣いても、涙は枯れることがない。
「そんなにお泣きにならないで」
 ガルヴィは言う。
「とても、辛いの」
 セルフィーユは寝台の上で、親友に助けを求める。
 姉のような乙女は、セルフィーユの手を強く握り返してくれた。
 真っ白な光に包まれたような気がして、少女は淡く微笑んだ。
「礼拝堂へ行って、神に祈りを捧げたい」
「もう少し元気になったら、行きましょう。
 王宮の礼拝堂もとても美しく、清らかだったわ。
 大神殿には負けるけど」
 ガルヴィは力づけようと微笑む。
「帰りたくて仕方がないわ。
 こういうのを旅愁病というのかしら?」
 初めて感じる苦しみ。
 父たる神が与えられた試練だろうか。
 心弱い自分は、聖リコリウスのようには乗り越えられそうにない。
「帰るも何も。
 ここはあなたの家なのよ」
「違う。
 ここは私の家ではありません」
 確信を持って、断言した。
 家がこんなに重苦しくて良いのだろうか。
 もっと、心休まる場所を家と呼ぶのではないか。
 神殿以外を知らない王女は思う。
「どこへ帰るというの?
 神殿は、もうすでに私たちの家ではないのよ」
 寂しそうにガルヴィは言った。
 どこへ……?
 それはセルフィーユにもわからなかった。
 ただ、一刻も早くここから立ち去りたい。
 何かに急かされているような気がした。
「神よ」
 セルフィーユは、空いている方の手で信仰の証である首飾りにふれた。
「光はどちらにあらせます。
 迷い深き娘をお助けくださいませ」
 涙を流しながら、少女は呟く。
「迷い深き妹よ。
 光はなんじと共に。
 いついかなるときも、父たる神はあなたを見守っています」
 ガルヴィは厳かに言う。
 まるで神殿のようだ、とセルフィーユは思った。
 ほんの数日前に別れた世界へ戻りたい。
 帰る場所がないというのなら、時を戻してしまいたい。
「礼拝堂へ連れて行って。
 今、神に祈りを捧げたいのです」
 セルフィーユは懇願した。
「では、ベールを被りましょう」

 白薔薇ばかりが捧げられた礼拝堂は、華やかであった。
 それでも、神の御前だと思うと少女の心は休まった。
 礼拝堂の入り口で、セルフィーユは崩れ落ちた。
 冷たい床にペタンと座り、色ガラスの窓を見上げる。
 聖王妃アネットが、国王に王冠を授けている場面が見事に再現されている。
 襟のつまった古風なドレスとベールは、白。
 足元の咲く花々も白で、聖王妃はほとんど色を持たない。
 白は聖王妃の神聖を表している。
 逆に、跪いている王は豊富な色を持つ。
「王女」
 慌てて、ガルヴィが助け起こす。
「神の御前では、身分は何の意味も持たない。
 どこでも、礼拝堂は清らかだわ」
 手を借りながら、セルフィーユは立ち上がった。
 首飾りと同じ意匠の彫像に、少女は笑みを浮かべる。
 ようやく息がつける。
 セルフィーユは無心で祈りを捧げた。

 ◇◆◇◆◇

 初夏だというのに、空はぐずつき、人々の不安は濃くなっていった。
 神の怒りにふれたのではないか。
 そうささやき交わす。
 違うと誰かに否定して欲しかったのに、誰も否定しない悪循環。
 ローザンブルグの華と謳われた公爵夫人の登場でも、それは払拭できなかった。
 ベールの貴婦人は、一時的に話題になったものの、暗い影は消えなかった。
 社交界すら混迷していた。
 王都へ帰ってきた王女が健康になることはなかった。
 日に日に悪化する容態に、国王は決断した。

 夏のある日。
 第一王女とマイルーク子爵の婚約が発表された。
 健康がすぐれない王女は、ローザンブルグでの休養が決まり、実質的な足入れ婚となった。

 王女が王都に戻って、37日目の朝のことであった。



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