V・マイルークの子爵

Nach dem Regen


 馬車は一路、ローザンブルグに向かっていた。
 避暑地として名高いローザンブルグ地方は、王国創成期の時代、王都があった場所だけあって、美しく古典的であった。
 ローザンブルグ的と言えば「保守的」を意味するほど、化石のように時が止まっていた。
 ベールを被り、慎ましいやかな娘たち。誠実で、生真面目な男たち。
 『エレノアール王国の大聖堂』と呼ばれるほど、この地方は神に程近かった。

「ソージュさま。
 レフォールの結婚が決まって、嬉しいですわ」
 ローザンブルグ公爵夫人のミルラは言う。
 薄物のベールを被らずに、のびのびと微笑する貴婦人は年月を感じさせない。
「聖王妃の血を引く王女だ。
 ローザンブルグ娘と同じようなものだな」
 機嫌よく公爵ソージュは言った。
「19にもなって、のんびりしているのですもの。
 本当に心配していましたわ。
 これで孫の顔が見られますのね」
「はて、どうだろう。
 親の決めた婚約のようなものだ。
 すぐに打ち解けるのは、難しいかもしれないな。
 第一、王女は御病気だ」
 公爵は言った。
「ローザンブルグは良いところですもの。
 あっという間に治りますわ。
 それよりも、王都は嫌な空気が溢れかえっていて、眩暈を起こしました。
 ソージュさまったら、平気なお顔をしているんですもの。
 私、目を疑いましたわ」
 ミルラはためいきをついた。
 生粋のローザンブルグ娘である公爵夫人は、今の王都が嫌いであった。
 生まれ育った場所を出るということに嫌悪感を強く覚えた。
 夫たっての願いであったため、叶えたが二度めはない。
「きっと、私が男だからだろうな」
 ソージュは左手首を押さえる。
 公爵夫人の灰青色の瞳はそのクセを確認して、笑む。
「ああ、だからレフォールも平気なのね。
 王都はもうこりごりです。
 早く、ローザンブルグ城へ戻りたいわ」
 慕わしくも美しいローザンブルグ城。
 そこで、ミルラとソージュは育ち、恋を知った。
「御者は急いでいるよ」
「そうそう、聖王妃の肖像を見ましたわ。
 ……ソージュさまの美的感覚は優れていますのね。
 二番目でも仕方がありません」
 ミルラは言った。
 聖王妃は美しいだけでなく、清らかであった。
 悔しいけれども、事実を認められないほど心が狭いと思われるのは、もっと嫌だった。
「レフォールは、好きな娘ができたら、世界で一番美しい、と言ってやるつもりだそうだよ。
 なかなかロマンチックだと思わないか?」
 ソージュは言った。
「素敵ですわね。
 きっと、王女もお喜びになるでしょう」
 自信たっぷりにミルラは断言した。

 ◇◆◇◆◇

 病床で自分の婚約を聞いた。
 王都から離れられると聞いて、セルフィーユは喜んだ。
 不満を持つ余裕はなく、そのまま馬上の人となった。
 侯爵令嬢ガルヴィは、親の反対を振り切り、セルフィーユに付き従った。
 高熱にあえぎながら第一王女は、ローザンブルグ地方マイルーク領へと入った。
 季節は、夏。
 北方に位置するこの地方が、一番美しい季節だった。
 晴天に恵まれ、良風に恵まれた旅は、順調そのもので予定通りであった。
 まるで、神が望むような状況に、王都の人々の不安は緩やかに解消され始めた。
 マイルーク城に入城して1週間後には、セルフィーユはすっかり快復して、床払いをした。

「すっかり、元気になられて嬉しいです」
 ガルヴィは、ニコニコとセルフィーユの支度を手伝う。
 神殿で暮らしているときからの習慣だったので、少女は何も疑問を持たない。
 マイルーク城の女官たちも、これと言って何も言わない。
 王宮とは違う、とセルフィーユは何度も思う。
「さあ、こちらを」
 ガルヴィは鏡を取り出す。
 金の髪をおろした少女が鏡面の中、微笑んでいた。
 襟のつまった深緑のドレスは、飾りが少なく、清潔であった。
 袖に小さく刺繍があり、美しいドレープを描くことから、丁寧な針仕事がうかがえた。
 王宮で薦められたドレスの何倍も好ましく思えた。
「元気そうに見えますか?」
 セルフィーユは尋ねる。
 鏡の中の自分は、健康的には見えなかった。
 長いこと床にいたため、肌は白く、心なしかくすんで見えた。
「ええ、もちろんですわ。
 きっとレフォールさまも驚きますわよ」
「どうして、レフォールさまが驚くのですか?」
「王女の婚約者ですもの。
 驚いて、お喜びになります。
 そうに違いありません」
 ガルヴィは言った。
「私、心配をおかけしているのですね」
 セルフィーユはうつむいた。
「それも、今日でおしまいですわ。
 さあ、ベールを。
 レフォールさまがご機嫌伺いに参ります」
 ガルヴィは、朝靄のようなベールを少女にかぶせる。

 身支度がすっかり済んだ頃、ラメリーノ嬢がやってきた。
 城主のレフォールよりも先に、その婚約者に会ったのである。
 不満げに、ガルヴィは退室した。
「初めまして、白薔薇姫。
 今日は、あなたに感謝を伝えに来たんですの」
 涼しげに透けるベールを被った貴婦人は言った。
 燃え上がる炎のような真紅のドレスに、黒繻子の手袋。
 形の良い指先がもつ扇子は象牙製で、細かな透かし彫りがあった。
 王都で好まれる装い。
 贅の極みというものだというのに、不思議と嫌悪感がなかった。
「私、ラメリーノと申します。
 レフォールの父方の従姉に当たりますわ。
 曾祖母に聖王妃を持つので、私たち又従姉妹になりますわね。
 レフォールとは、本当に親しくお付き合いさせていただいてましたのよ」
 ラメリーノは笑む。
 セルフィーユは状況が良く飲み込めないでいた。
 名を覚えきれないほどの親戚がいる。という状況に、未だに慣れないでいる。
「仲良くしていただけるかしら?
 あなたがローザンブルグ娘だと、聞いたのよ」
 真紅のドレスの貴婦人は言う。
「ローザンブルグ娘、とはどんな意味なのですか?」
 気後れしながら、気になった言葉の意味を問う。
 セルフィーユが第一王女であること、大神殿の先のかんなぎであったこと。
 それらは変わらない事実だが、ローザンブルグの娘という言葉に馴染みがなかった。
「私たちのような女を指すの。
 それで、感謝しているのよ。
 あやうく、レフォールと結婚させられるところだったんですもの」
「……え」
 少女は身をすくませる。
「勘違いしないでくださる?
 私とレフォールはただの従姉弟。
 思い交わす仲じゃなかったわ。
 伯母さまのように、流されやすくなくってよ。
 ですから、感謝していると何度でも言いましょう。
 ありがとうございます。
 そして、おめでとうございます。
 我が従弟殿だけれども、レフォールは文武両道の素晴らしき騎士であり、領主よ。
 ゆくゆくはローザンブルグを継ぐ公子でもあるわ。
 品性も、身分も、第一王女の伴侶としては申し分ないの。
 おわかりになるかしら?」
 淀みなくラメリーノは言った。
 聖典を歌う巫女たちのように、なめらかで音楽的な口調に、少女は親しみを感じた。
 物腰は茨のようだけれど、その奥には優しさやいたわりが秘められている。
 芯の強い女性だと思った。
「ありがとうございます」
 婚約の祝いを述べにきてくれた。
 その心遣いが嬉しく、セルフィーユは習い覚えたばかりの礼をする。
 ドレスの裾をつまみ膝を折る。
「あら、可愛らしい方。
 オマケですわ」
 ラメリーノはベールを取った。
 大輪の華を思わせる美貌と、豊かな体があらわになる。
 広く開いた襟に、セルフィーユは目が釘付けになった。
 あらわになりそうな胸でも、豪奢な首飾りでもなく、一点が気になったのだ。
 首元に、薄紅色の痣を見つけたのだ。
 色こそ違えど、自分のこめかみにあるものと同じ痣。
「これはローザンブルグ娘の証。
 私たち一族の中には、こうして印を持って生まれる娘が稀にいるのです」
 ラメリーノは痣にふれる。
 少女は動揺して言葉が見つからなくなる。
 まったく同じ形の痣。
 偶然ではない……。
「だから、ここでは襟の高いドレスが喜ばれ、ベールが好まれるの。
 まったく聖徴を持たない娘も多いし、聖徴が薄い娘もかなりの数いるわ。
 でも、私はきちんと目に見える形で生まれたのが不幸ね」
 にこりと笑うと、ラメリーノは再びベールを被った。
「おかげで不便な生活だわ。
 では、ごきげんよう。
 そろそろ従弟殿が来るでしょうから」
 優雅に貴婦人の礼をしたところに、レフォールが訪れた。
「ラメリーノ姫、何故ここへ?」
 子爵という身分に合わせた装いの青年は、尋ねる。
 銀の騎士の姿が高潔であったのなら、今の姿は典麗。
 従姉弟同士ということもあって、二人が並び立つと調和が生まれる。
 けれども、セルフィーユは純粋に美しいと思えなかった。
「あら、やだ。
 せっかちね。
 もっと時間がかかると思っていたのに。
 まあいいわ。
 ごきげんよう」
 陽気な貴婦人はそう告げると、勝手に部屋を出て行った。
 しばしの沈黙の後。
「今日はお加減がいいと伺ったので、散策はどうでしょうか。
 是非とも見ていただきたいものがあるのです」
 レフォールは優しげな物腰で問う。
 自分はこの人を心配させていた。
 できるだけ早く健康を取り戻したい、と貪欲にも願った。
「はい」
 セルフィーユはうなずいた。

 連れられてやってきたのは、礼拝堂だった。
 ガランとして、何もない。
 豪華なステンドグラスもなければ、宗教画の一枚もない。
 金で三日月をかたどり、ルビーの宝玉を持つ神の彫像――御印があるだけだった。
 捧げられているのは可憐な野の花。
 王宮の礼拝堂とはまったく違う。
「殺風景でしょう」
 レフォールは言った。
「いえ」
 セルフィーユは首を横に振った。
 静かだった。
 光が体の中に満ち溢れていくのを感じる。
 少女はそっと息を吐く。
 慕わしく思う。
 懐かしい、親しい、まるで昔から知っているような気がする。
「大神殿に良く似ています」
 セルフィーユは自分の言葉に目を瞬かせる。
 だから、こんなに胸苦しくなるほど嬉しいのだろうか。
「この礼拝堂の歴史は古く、エレノアール王国創成期までさかのぼることができると言われています。
 大神殿と同じ頃に、建てられたそうです。
 建築様式が同じなのでしょう」
 レフォールは言った。
 穏やかで誠実な口調は、礼拝堂にふさわしい。
 少女は、青年を見上げる。
 明り取りの窓から差し込む光を浴びる青年は、聖リコリウスのようだと少女は思う。
 聖リコリウスは、異国民だったという。
 異教を信じ、蛮勇を振るっていた若き日のリコリウスは、突然神の啓示を受けたという。
 神の言葉に耳を塞ぎ、逃亡の旅を続け、やがてエレノアール国にたどりついた。
 初代ハーティン王に出会い、大いなる感銘を受け、やがて神の子として洗礼を受けた。
 その後も、リコリウスは多くの試練を与えられ、リコリウスは苦難を乗り切ったという。
 王国創成期の逸話であり、宗教画の題材として最適なため、聖リコリウスの受難絵は、どこの礼拝堂でも掲げられている。
 けれども、この礼拝堂にはなかった。
 生きた聖リコリウスがいるのだから、必要ないのかもしれない。
「ここには時間が積み重ねられているのですね」
 セルフィーユは心地よい静けさを壊さないように、声を抑えて話す。
「お気に召したのでしたら、ご自由にお使いください。
 この地には数多くの礼拝堂があるために、一族の者もほとんど祈りに参りません。
 神もお喜びになるでしょう」
「ありがとうございます」
 祈りの中で、15年間暮らしていた王女にとって、これ以上ない贈り物だった。
 零れそうになる涙をこらえる。
 嬉しくて、幸せで、この地に来て良かったと心から思える。



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