W・ローザンブルグの白薔薇

Die Liebe zieht mit sanften Schritten


 祈りの日々が帰ってきた。
 マイルーク子爵の婚約者として、課せられたものは少なかった。
 この地方の女性は、乗馬もせず、社交界も開かず、茶会すらしないという。
 一族の者で集まるときも、ベールの貴婦人たちは飲み物も口にしない、という。
 もともと神殿での教えもあり、マナーの基本があったことも幸いして、セルフィーユは貴婦人教育を課せられなかった。
 ドレスの着こなしと刺繍、それと詩の読み解きが、貴婦人らしい勉強だっただろうか。
 神学はすでに習い覚えていたので、外国語と歴史に古典。
 学習にあてられたのは数時間で、残りは自由時間となる。
 セルフィーユは好きなだけ、祈りを捧げることができた。
 聖典を読み、神の言葉にふれ、過去の聖人たちの偉業を知り、また祈る。
 静かな、セルフィーユが望んだ生活であった。
 
 日差しが緩くなる昼下がり。
 セルフィーユは礼拝堂の側にしつらえてある花壇の花を眺めていた。
 野に花のない季節に神に捧げる花が絶えないように、と様々な花が植えられていた。
 近くに実をつける樹木も植えられていて、いくつか花をつけていた。
 いかに神を敬っているか、その篤い信仰が伝わってくる。
「ごきげんよう、白薔薇姫」
 水色の日傘を差した貴婦人が言う。
 又従姉はベールが嫌いらしい。
 痣を気にすることなく、王都の最新流行のドレスを着こなす貴婦人に、軽い嫉妬を覚える。
 自分らしく振舞う、それを羨ましいと思ってしまう。
「ラメリーノさまもごきげんよう」
 セルフィーユは会釈する。
「ああ、いけないわ。
 あなたは第一王女で、やがてはローザンブルグ公爵夫人になるんですもの。
 自分より身分の低い人間に、頭を下げてはいけないのよ」
「……申し訳ありません」
「そうやって、謝るのも良くなくてよ。
 もっと貴婦人らしく振舞わなければいけませんわ」
 ラメリーノは言った。
「はい」
 セルフィーユはうなずいた。
 神の御前では誰もが平等であるが、俗世では違う。
 意識していても、長年のクセは抜けないものだった。
「お一人かしら?
 あの子リスのような忠義者はどちらへ」
「ガルヴィでしたら、城の外へ行きました」
 姉のような乙女は最近、あちらこちらへ出かけていく。
 セルフィーユに何から何まで合わせる必要はないのだから、良い変化だった。
 今まで、ずっと縛り続けていた。
 ガルヴィも自分のための時間を持つべきだと、以前から思っていた。
 だから、セルフィーユはこの変化を喜びこそすれ、厭うたりはしなかった。
「まあ。
 では、お一人で寂しいでしょう。
 レフォールのところへ押しかけてしまいましょう」
「え?」
「今頃、書斎ですわ。
 かまわなくってよ、あなたは婚約者なんですもの」
 陽気な貴婦人は笑う。
「お仕事の邪魔になります」
 慌ててセルフィーユは言った。
 多くの迷惑をかけてしまっているのだから、これ以上の迷惑はかけられない。
「かまわないわ。
 ローザンブルグが一番美しい季節に、部屋に閉じこもっているのは馬鹿ですもの」
 強引にラメリーノはセルフィーユの腕をとった。

 ◇◆◇◆◇

 レフォールはためいきをつく。
 灰色の瞳の先には、華やかな従姉姫。
「ラメリーノ姫、またいらっしゃったんですか?」
「ええ、いけなかったかしら?」
 水色のドレスをまとった貴婦人は、艶やかに笑う。
「ローザンブルグ城を頻繁に抜け出している、と叔父上から手紙が参りました」
 紋章入りの手紙をレフォールは差し出した。
 これを届けに来た従兄は、呆れたように笑っていた。
 どうやら小言の一つも言われたようだった。
「あら、お父さまったら心配性ね。
 そんなことはどうでもいいわ」
 ラメリーノは手紙を一通り読んで、青年に返す。
「可愛らしい婚約者を放っておくなんて、どんなおつもり?
 流麗な弁解を聞かせていただけるんでしょうね」
 ラメリーノはそう言うと、自分の背に隠れるように立っていた少女の肩を押す。
 一歩分前に出たセルフィーユは困ったように小首をかしげる。
 シャラシャラとベールの裾についた色ガラスが涼しげな音を奏でる。
「今日のお加減はどうですか?」
 レフォールは尋ねた。
「おかげさまで、すっかり健康になりました」
 控えめな声がささやく。
 一度だけ見た姿を青年はベール越しに再現する。
 流れる金の髪とサファイアの瞳。
 透けるような白い肌に真紅の痣。
 可憐で清楚な姿。
「日が暮れるまで、散策でもしなさい。
 遠乗りは無理でも、城の森を歩くのはできるでしょう」
 ラメリーノは怒りながら言った。

 マイルーク城は森の中にたたずむ堅牢な城。
 王城とは違う無骨なデザインは、この城が砦であったため。
 王国創成期の名残だった。
 四方の森が城壁代わりで、多くの小動物の憩いの場にもなっていた。
 城主一族への不敬にあたるということで、人はほとんどいない。

「豊かな森ですね」
 セルフィーユは感心した。
「そう言っていただけて光栄です」
 自分の肩ほどの身の丈の少女を見守りながら、レフォールは言う。
 いつだったか、思い描いた夢がこうして形になるとは思わなかった。
 深い緑の中、咲いた光の花のように、王女は美しかった。
 華やかさや艶やかさはない。
 心洗われるような美しさなのだ。
「素敵な場所ばかりで、マイルークがとても好きになりました」
 嬉しそうに少女は言う。
「ずっと好きでいてくれますか?」
 レフォールは尋ねた。
「ええ、もちろんです。
 このように美しい場所は、大神殿とここだけです。
 嫌いになったりはできません」
 求婚の返事とも取れる言葉に、レフォールは息を飲み込んだ。
 灰色の瞳をしばたかせ、それから自分の思い込みを正す。
 国王の命で決まった婚約だった。
 意志はどこにもない。
 それでも、願わずにはいられない。
 希望を持たずにはいられない。
「私、これからずっとここで、暮らしていけるんですね。
 王宮へ、戻らなくても……」
 少女の白い手が首飾りにふれる。
 震える指先、心細さを訴える声。
「ローザンブルグ城へ移ってもらう日が来るかもしれませんが、この地方の外へ出る日は来ないでしょう。
 あなたが望まないかぎり」
 複雑な思いで、レフォールは言った。
 王女の故郷は王都であり、家族のいるところは王宮なのだ。
 二度と王女は、故郷の土を踏まないかもしれない。
 この地を故郷として、これから暮らしていく。
 人の子として、それは幸福なのだろうか。
 父なる神はそれをお望みなのだろうか。
「ローザンブルグ城も素敵ですか?」
 少女は尋ねる。
「私の生まれ育った城です。
 マイルーク城によく似たつくりで、近くに大きな湖があります。
 城の最上階から臨む湖は、大きな鏡のように天を映し出します」
 青年は答えながら、王女の幸せについて考える。
 一番の幸せを願うほどに、もう囚われていた。
 たった一瞬だけ見たサファイアの光に。
「ぜひ、見てみたいです」
 セルフィーユは言う。
 その手は首飾りをふれていなかった。

 ◇◆◇◆◇

 短い夏の間。
 セルフィーユはいくつもの思い出ができた。
 それはとても幸福なことと思えた。
 誠実な男性が自分の婚約者であることを、幸運に思ったのだった。
 やがて、妻になる日が来る。
 そのことを楽しみとさえ、思うことができた。
 けれども、セルフィーユは幸せになりきれなかった。
 自分のこめかみにある痣。
 このために、自分は遠ざけられた。
 国王の娘であれば、大神殿の願いを拒否することができたはず。
 長じるにつれて知りえた知識が、少女をさいなむ。
 父たる神はそんなことをお望みではない。
 そうわかっていても、人の心は縛ることなどできない。
 痣など欲しくなかった、と強く思ってしまう。
 思い、そして後悔して、セルフィーユは信仰にすがってしまう。


 夏が終わろうとする頃、セルフィーユは16歳になった。
「おめでとうございます。
 大人の仲間入りですね」
 言葉と共に花束を贈られた。
 今朝から届く花は、皆同じでセルフィーユはうつむく。 
 真っ白な薔薇は第一王女の象徴。
 自分の花だと言われても、そうは思えない。
「ありがとうございます」
 使用人に申し付けたのではなく、自ら運んできてくれた。
 きちんとお礼をしなければ、という意識がセルフィーユに言わせた。
 ふと視界に入った大きな手を見て、少女は小首をかしげる。
 騎士の利き手には、白い包帯が巻かれていたのだ。
「どうなさったんですか?」
「……たいしたケガではありません。
 大げさなだけです。
 明日には、きっと治っています」
 レフォールは歯切れ悪く答える。
 白い薔薇と白い包帯を交互に見比べて、一つの考えにたどりつく。
 セルフィーユは頬を染め、うつむいた。
「私のために薔薇をつんでくださったんですね。
 ありがとうございます」
「野生の薔薇ですから、庭師を呼びに行くのもためらわれて……、お恥ずかしいことです」
 青年は言った。
 セルフィーユは優しい気持ちに包まれる。
 ふわふわとして、居心地がいい。
 このままたゆたっていたい。
「当家に伝わる家宝を見ていただきたいのです。
 お時間をいただけますか?」
「はい」 


 マイルーク城に来て、2ヶ月経つが初めて訪れる場所だった。
 ローザンブルグ家の一族のみに立ち入りを許されているという。
 広い回廊を渡りながら、絵画を見上げる。
 絵画のために作られた廊下というのだから、ずいぶんと大げさなものだった。
「ここから先は、他家に嫁がれた女性の肖像です。
 見ていただきたいのは、この絵です。
 当家の宝です」
 レフォールは立ち止まった。
 セルフィーユは絵画を見上げる。
 石造りの壁に見上げるほど大きな一枚の絵があった。
 絵の下には金属のプレートにタイトルがつづられている。
 『聖王妃アネット』
 横顔の少女は、祈りを捧げるようにうつむいていた。
 襟の広いローブをまとい、金の髪を緩く編んでいた。
 あらわになった首筋に、真紅の痣を見出した。
 セルフィーユは驚いた。
 自分と同じ痣だ。
「聖リコリウスをご存知でしょうか?」
「はい」
 セルフィーユは首飾りにふれる。
 心臓が早鐘を鳴らす。
 視線を絵画から外すことができない。
「聖リコリウスが洗礼を受けたとき、父なる神は一つの印をくださりました。
 以来、ローザンブルグ一族には御印と同じ形の赤痣を持つ子が生まれるようになりました。
 色濃く出る女性は少ないのですが、そういった方々をこの地方ではローザンブルグ娘と、特に呼びます」
 レフォールは言った。
 ためいきが自然とこぼれた。
 ようやく自分の居場所が見つかった。
 ここに帰ってきたかったのだろうか。
 鏡の中、痣を見つけて嘆く必要はないのだ。
 聖王妃の肖像が肯定してくれるような気がした。
「ありがとうございます」
 セルフィーユは言った。
「いえ。
 その……マイルーク子爵夫人として、当然の知識ですから……。
 覚えていただきたいと思ったのです」
 レフォールは困ったように言った。
 そっと伸びてきた腕が、傷つけないようにセルフィーユのベールを奪う。
「ここでは隠さなくてもいいんです。
 あなたの痣を見て、不快に思う者はいません」
 灰色に見えた瞳は青を含んでいたことを、初めて少女は気がついた。
 肖像の聖王妃と同じ色の瞳だった。
「ありがとうございます」
 どこかで見たことがある、と思ったのは当然のこと。
 謁見の間で一度視線を交わしている。
 セルフィーユは微笑んだ。
「あなたは世界で一番美しい」
 大きな手がセルフィーユの手を包む。
 鼓動が早くなり、耳が熱くなる。
 顔を隠すベールもなければ、手もつかまれている。
 少女はうつむいた。
「私の妻になっていただけませんか?」
 レフォールは言った。
 言葉が心にじんわりと染みこんでくる。
「……はい」
 セルフィーユはうなずいた。


 後世に謡われる聖王女セルフィーユ。
 彼女の逸話は、マイルーク子爵夫人となってからの方が多い。
 光のごとき美しさと清らかな人柄に、多くの詩が作られ、くりかえし謡われる。
 その出だしはいつも同じ。
 ローザンブルグの白薔薇
 そう謡われる。



目次へ『ローザンブルグの歌』へ