光の聖歌

Erschallet, ihr Lieder


 多くの礼拝堂、荘厳な神殿が立ち並ぶ。
 この地方を治めるのは、ローザンブルグ一族。
 その歴史は古く、王国創成期までさかのぼることができるという。

 ローザンブルグ地方マイルーク領、マイルーク城。
 その門をくぐったのは、やはりローザンブルグ一族であった。
 ペルシ・サルファー・ローザンブルグ。
 マイルーク子爵の従兄弟の一人であった。
 盛夏は、この地方が最も輝くとき。
 自然とペルシの表情もにこやかなものになった。
 森に面したテラスに上がると、テラス窓を叩く。
 若きマイルーク子爵は驚きながら、テラス窓を押し開いた。
「レフォール殿、ご健勝であられるか?」
 ペルシはわざと堅苦しく尋ねた。
「ペルシ殿、いつこちらへ?」
 表情一つ変えず、レフォールは言った。
 感情表現の鈍さは、この従弟らしさだった。
 堅実、実直、誠実――ローザンブルグの男たちの特徴だ。
「ついさっき。
 父上に挨拶しようと思って、ローザンブルグ城へ行ったら、これを仰せ付けられた。
 おかげで休みなしに、こっちまで来たよ」
 ローザンブルグ一族の特徴からやや離れている青年は肩をすくめた。
「では、お茶の用意でも」
「いや、いいよ。
 裏口から入ってきた分際だから、歓待を受けるわけにはいかない。
 ……茨姫は、こちらだろう?」
 ペルシは父から預かってきた手紙をレフォールに預ける。
「図書館で本を探していたと記憶している」
「勉強とは、面妖な。
 あの人はそういったことが嫌いだったと思っていたよ。
 私がここを離れている間に変わられたのか?」
 ペルシは青鈍色の瞳を見開く。
 茨姫ことラメリーノ・ガレナ・ローザンブルグは、縛られることが大嫌いだった。
 ローザンブルグ娘として生まれ育ったことに反発しているのだろう。
 自由奔放な振る舞いからついたあだ名が茨姫。
 華やかな美貌と刺々しい物腰、まさしく野茨だった。
 もっともペルシの記憶の中には、3年前の姿しかないのだったが。
「心境の変化だそうだ。
 王女が読書家だから、合わせているうちに本が好きになったという可能性もある」
 レフォールは言った。
「肝心なことを言うのを忘れていた。
 婚約おめでとう。
 白薔薇姫は大変お美しく、素晴らしい人柄なのだろう」
「ありがとう」
 嬉しそうにレフォールは笑う。
 次期ローザンブルグ公爵として、気難しい親戚たちに囲まれて育った青年だけに、そういった表情は貴重だった。
「ところで、今日は礼拝堂に立ち寄ってもかまわないかな?」
 ペルシは慎重に切り出した。
「この時間なら、大丈夫だろう」
「ほかの時間はダメなのか?」
「王女が朝に夕に、祈りを捧げている」
「なるほど。
 鉢合わせをして、驚かせてはいけないな。
 奥ゆかしい女性ならなおのこと、茨姫とは違い繊細だ。
 時に神に歌を捧げても平気かな?」
「もちろんだ。
 神もお喜びになるだろう」
「寛大なお気持ちに感謝するよ、マイルーク子爵」
 ペルシは慇懃に礼をした。

 ◇◆◇◆◇

「お嬢さん、どの枝が欲しいんだい?」
 明るい声に振り向くと、見知らぬ男性が立っていた。
 ガルヴィは驚いて、手を下ろした。
 花のついた枝が欲しくて、必死に手を伸ばしているところを見られてしまった。
「この枝かな?」
 気取りない笑顔を浮かべた青年は、枝にふれる。
 背の高い男性だ、とガルヴィは思った。
「レフォールさまのご親戚の方?」
 そう思ったのは青年の身なりの良さからだった。
 貴族たちが好む長衣に、髪を結わえるのはサテンのリボン。
 それに、蒲公英色の髪に、青鈍色の瞳という色彩は、マイルーク子爵との共通点だった。
「これは失礼。
 私の名前は、ペルシ・サルファー・ローザンブルグ。
 数多くいる従兄弟の一人だ。
 よろしくね、お嬢さん」
 ペルシと名乗った青年は丁寧に礼をする。
 礼法に則った礼は、王都でくりかえし受けたもの。
「私は、ガルヴィよ」
「ベルシュタイン令嬢?」
「よくご存知ね」
 黒い瞳の乙女は、びっくりする。
「ついこの間まで、王都にいたんだ。
 君はとても有名人だよ。
 それで、どの枝が欲しいの?」
 ペルシは言った。
「その右の枝が欲しいの。
 あ、その枝よ」
「はい、どうぞ」
 青年は花のたくさんついている枝を差し出した。
「ありがとうございます。
 あなたは背が高いのね」
「ローザンブルグでは普通の背丈だよ。
 高いというなら、レフォール殿の方が高いだろう。
 それで、その枝をどうするんだい?」
「リース(花輪)にしようと思っているの」
「作るところを見てもかまわないかな?」
 青鈍色の瞳がガルヴィの持つ枝をじーっと見る。
「ええ、どうぞ」

 礼拝堂の近くにあるベンチに腰かけ、ガルヴィはリースを編み始める。
 こういった作業をしていると、大神殿での暮らしが思い起こされ、しみじみとした気分になる。
 還俗し、侯爵令嬢としての日々は味気ないばかり。
 王女と信仰を語らうとき、神の供物を用意するとき、ガルヴィは光に満ち溢れる気がするのだった。
「リースを作るところを見るのは、久しぶりだ。
 茨姫なんて作り方を知らないんじゃないかな」
「どなたのことですか?」
 少女は問う。
「ラメリーノ嬢のことだよ。
 彼女はとても有名人だから、茨姫というたいそうなあだ名を持っているのさ」
 リースを食い入るように見つめながら、ペルシは言う。
 本当に、リースが珍しいのだろう。
「まあ、そうなんですか」
 少女は華やかな美貌の貴婦人を思い出す。
 人を花にたとえるのは、空恐ろしいような気もしたが、彼女は野茨のようだという印象はあった。
「素晴らしいリースだね。
 リースは神に捧げる贈り物の中で、二番目に素晴らしい贈り物だと思っている」
 ペルシは言った。
「神に捧げるものに、良いも悪いもありませんわ。
 感謝の気持ちがあれば、一輪の花も抱えきれない花束も同じです」
「一番は、歌だと思っているんだ。
 財を持たなくても、祈りと歌だけは捧げられるだろう?」
 青年は熱く語る。
 青鈍色の瞳の輝きは、信仰の光。
 神殿で15年暮らした乙女には、好ましく写った。 
「ええ、そうですわね。
 確かに祈りと歌は、どんな方でも神に差し上げられるものですわ」
 ガルヴィはうなずいた。
「このリースを捧げるとき、一緒に歌を歌ってくれないだろうか?
 神殿で巫女をしていたのなら、聖歌に心得があるだろう?
 合唱を神に捧げてみたいんだ」
「ええ、私でよろしければ」
「良かった!
 なかなか『うん』とうなずいてくれる人がいなくてね。
 むしろ、歌うなという人の方が多いくらいで。
 多少の音外れを許してくれるだろうか?」
 ペルシは懇願する。
「上手いも下手もありませんわ」

 神にリースを捧げた後、二人は聖歌を捧げる。
 信仰の象徴、絶えぬ灯火の中、初めて習う聖歌を歌う。
 技巧がなく、ただ神への愛情を歌うそれは『始まりの聖歌』と呼ばれ、一番初めに教えられる聖歌として愛されている。
 神殿や礼拝堂以外でも、ちょっとした集まりのときに口ずさまれる。
 ガルヴィは歌いながら、光の園を歩いているような気がした。
 まるで大神殿の礼拝堂のように、光が満ち溢れていく。
 完璧に、神への感謝を歌い上げる。
 その傍らの存在に、心が震えた。
 父なる神もお喜びになるだろう、と確信した。
 このように素晴らしい歌声を他に知らない。
 今捧げられている歌を聞く者が他にいないことが悔やまれた。
 歌が終わり、ガルヴィはドレスのポケットからハンカチを取り出した。
 あふれる涙をそれで抑える。
「どうかしましたか?」
 背の高い男性は慌てて腰をかがめ、ガルヴィに視線を合わせる。
「素晴らしい歌声に、感動しました。
 泣き虫なので、すぐに泣いてしまうんです。
 お気になさらずに」
 ガルヴィは涙をぬぐう。
「涙は父なる神が与えた真珠。
 悲しみをぬぐい、苦しみを癒す。
 でも、女性の涙は苦手だ。
 どうしていいのかわからなくなる」
 ペルシは困ったように微笑んだ。
「嬉しいときや、喜びを感じたときにも涙が流れてしまうんです」
 少女は微笑んだ。
 一時的な強い思いにこぼれた涙は、すぐさまおさまる。
「ああ、それなら良かった。
 君に不快な思いをさせたのかと思ってしまった」
「そんなこと、ありませんわ」
 ガルヴィは歌の素晴らしさを伝えようとした瞬間、乱暴に礼拝堂の扉が開いた。
 つかつかと水色のドレスの貴婦人は歩み寄ってくる。
 パン
 乾いた音が礼拝堂いっぱいに響いた。
 突然のことに、ガルヴィは怯えた。
「ごきげんよう、茨姫」
 頬を叩かれた青年は、それでも貴婦人に礼儀正しいお辞儀をした。
「歌うなと言われてもまだ歌いますのね」
 ラメリーノは不機嫌に言った。
「レフォール殿のご厚情に甘えてね。
 3年ぶりですが、あなたの美しさはお変わりないようだ」
「当然でしょう」
「お父上がお帰りをお待ちしていましたよ」
「気が向いたら、帰ると伝えてちょうだい」
「あなたはそればかりだ」
 ペルシはためいきをついた。
「あなたに指図される筋合いはなくってよ」
「確かに、その通りだ。
 伝言は承りました。
 失礼、ガルヴィ嬢。
 合唱をしていただけて感謝しています。
 次……は、なさそうなのがひどく残念だ。
 ありがとう」
 ペルシは優しく微笑んだ。
「いえ、素敵な歌声でしたわ。
 こちらこそ、礼を言わなければなりませんね」
 気を取り直して、ガルヴィは言った。
「言うことなくってよ。
 歌うことを禁じられていたはずよ、ペルシ」
 ラメリーノは苛立ちを隠さずに言った。
「マイルークとローザンブルグと、レインドルクの礼拝堂では歌ってもかまわないとお許しをいただいたんだよ」
「まあ、伯父さま方は心優しすぎますわ。
 それとも耳が遠くなったのかしら?
 どちらにしろ、私のいるところでは歌わないでちょうだい」
「もちろんだとも。
 神に誓ってもいい。
 あなたの機嫌を損ねることが恐ろしいことぐらい、私は昔から知っていますから。
 ではごきげんよう、美しい茨姫」
 ペルシは軽く微笑むと、きびすを返した。
 ガルヴィは何とも言えない気分になった。
 目の前で人が叩かれた。
 体罰として存在していることを知ってはいたが、大神殿では見たことがなかった。
 ラメリーノという女性は、気高さと芯の強さを兼ね備えていると思っていたので、感情に駆られてそんなことをするとは。
 見たばかりのことを信じられなかった。
「私はペルシの歌が嫌いなの」
「光に満ちた声でした」
 ガルヴィは事実を告げる。
「でしょうね。
 だから、嫌いなのよ!」
 ラメリーノは言い切った。
 理解できない言葉に、ガルヴィは指で祈りの形をつくる。

 
 それから、3日後。
 ガルヴィは忘れることのできない一連のことに、ためいきをついた。
「父たる神よ。
 光たる方よ」
 礼拝堂で祈りを捧げながらも上の空になる。
 そんな気持ちのまま神の御前に立つのは、良くない。
 敬虔な少女は鬱々とした気分で、礼拝堂を出た。
「ごきげんよう、ガルヴィ嬢」
 光あふれた世界の中、ペルシが立っていた。
 太陽が大地を盛んに愛する季節。
 そのまぶしさに、ガルヴィは目を細めた。
「……あ、ごきげんよう。
 その、お怪我は……」
「音の割りに、痛みは少ないんだ。
 あの派手な音は精神にくるけどね」
 ペルシは微笑む。
 良かった、と純粋に思えなかった。
 人を叩くということは、良くないことだ。
 叩く方も、叩かれた方も、悲しい。
「ところでためいきの理由は、私だと自惚れてもいいのかな?」
「半分は、そうです。
 歌をお嫌いだなんて、ラメリーノさまがかわいそうだと思ったんです」
 少女は言った。
「嫌いなのは、私の歌だけだよ。
 しかも、私の歌を嫌いな女性はたくさんいる。
 少し散策しないか?
 茨姫に見られたら、君まで怒られてしまう」

「光に満ちた声だと思っています」
 ガルヴィは歩きながら言った。
 森の中は静かで、時が止まっているような錯覚に陥る。
 舗装された小道は、人が入っている証なのに、ここは神の域のようだった。
「最高の賛辞だね。
 嬉しいよ」
 ペルシはにこにこと言う。
「神の御傍にいるような気がしました」
「それが、気に入らないんだろう。
 ここは王都と違って、保守的なんだ。
 君の目には奇異に映るかもしれない」
 仕方がないことなんだ、とペルシはつぶやいた。
 どんな気分だろうか。
 神に捧げる聖歌を歌うなと言われるのは。
 それが当たり前だということは。
 ガルヴィにとって、それは苦痛だ。
「ペルシさま……」
「ありがとう。
 でも、歌うのを禁じられたわけじゃない。
 マイルークとローザンブルグと、レインドルクの礼拝堂では歌ってもかまわない。
 その、彼女たちが……いないときは。
 昔は好きなだけ歌って、その度怒られたよ」
 ペルシは己の首筋をふれる。
 青鈍色の瞳がかげって見えた。
「でも、もう大人だからね。
 そんな無節操なことはしない。
 やはり、誰かに不快感を与えるのは、好ましくないしね」
 青年は顔を上げ、明るく言った。
 不快感という単語に、ガルヴィは反応する。
 自分の妹のように愛しい、けれども敬愛する王女を思い出す。
 人目を気にして、万事控えめに振舞う姿は悲しい。
 神はあるがままを良しとする。
 誰かのために自分の生き方を捻じ曲げるのは、神の望みではない。
 光に向かい、未来に向かうために、人は顔を上げるのだ。
「それよりも明るい話をしよう。
 私は礼拝堂の脇に必ず植えられる林檎の樹がいたくお気に入りなんだ」
 ペルシは先が気になるような口ぶりで語る。
「どうしてですか?」
「秋になると美味しい実をつけるだろう?
 神にまず捧げてから、その林檎を厨房で焼いてもらうんだ。
 焼き林檎を食べるたびに、神に感謝するんだ。
 おお、神よ。
 我に焼き林檎を与えてくださるとは、なんと慈悲深い。ってね」
 芝居がかったしぐさでペルシは言う。
「まあ」
 秋が来るたびにくりかえされるだろう光景に、ガルヴィはふきだす。
 自分より二つか三つ年長の青年が、子どものように焼き林檎を楽しみにしている。
 焼き林檎は、貴族が好んで食べるような嗜好品ではない。
 秋が来れば誰でも口にするものだった。
 平民にとっては、たまの贅沢。
 子どもにしてみれば、秋の楽しみ。
 そんなものを貴族の青年が楽しみにしていることがおかしかった。
「ガルヴィ嬢は焼き林檎を食べたことは?」
「もちろん、あります。
 でも、そんなに楽しみにしたことはありません。
 神殿で楽しみだったのは、黄色いオムレツでした。
 朝食にオムレツが出る日は、一日が素敵に見えました」
「慎ましやかな幸福だ。
 還俗した今は、毎日幸せかな?」
 ペルシは尋ねる。
「私は貴族の娘なんだ、と毎朝確認しています」
 ガルヴィは答えた。
 テーブルに、オムレツが出るのは当たり前のことだった。
 どんな末端の貴族であっても、平民と比べるまでもない贅沢の中で生きている。
 毎朝のオムレツは確かに嬉しいけれど、失ってしまったものもあるような気がした。
「還俗を悔いてるような口調だ。
 神官に代わって、悩みを聞こうか?」
「いいえ。
 これも神が与えてくださった試練だと思っています。
 運命を受け入れます」
 少女は真剣な面持ちで言った。
「君はいまだ神殿の巫女のようだ。
 とても素敵だ」
「誰の胸にも、信仰はあります。
 ペルシさまのお心の中にも。
 人の子はみな素敵なものです」
 ガルヴィは言った。
 ペルシは何も言わずに微笑みを返した。


 それから、ペルシは度々、ガルヴィを散歩に誘った。
 城壁代わりの森を散策したり、すこし遠出して湖を見に行ったり。
 デートと呼ぶには愛らしい、そんな時間を共有した。
「最近、楽しそうですね。
 何かいいことがあったんですか?」
 無垢な瞳を持つ王女が尋ねるまで、それほど時間を必要としなかった。
「え……あ、その」
 ガルヴィは困った。
 ペルシの話をしてもいいのだろうか。
 見知らぬ男性の話だ。
「礼拝堂で会った方、時折……お話をしているんです」
「その方は、篤き信仰をお持ちなのですね。
 とても嬉しそうにしているから」
 セルフィーユは言った。
「はい。
 とても深く神の教えを従っている方です。
 それ以上に、俗世のことをご存知で。
 素晴らしいバランス感覚をお持ちなんです。
 見習うところがたくさんあります」
「ガルヴィが幸せそうで、私も嬉しいです」
 セルフィーユは微笑んだ。
「私も王女が幸せだと、嬉しいです。
 すっかり健康になって、本当に嬉しいですよ」
 ガルヴィは言った。
「ありがとう、ガルヴィ。
 一緒にローザンブルグに来てくれて……。
 本当に感謝しています」
「もったいないお言葉です。
 姉妹のように育ったんですもの。
 王女が嫁ぐ日まで、何があっても離れません」
 心からの願いだった。
「ありがとう」
 もう一度、王女は言った。


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