U・赤の聖徴

Barmherziges Herze der ewigen Liebe


「とうとう紋章入りだ、レフォール殿」
 ペルシはためいき混じりに、執務机の上に置いた。
「叔父上は、だいぶ怒っているようだな」
 レフォールも手を休めて、手紙を受け取る。
「だいぶじゃなくて、めちゃくちゃ怒ってますよ。
 彼女は美しくも若いローザンブルグ娘。
 早く夫を決めなきゃいけない」
 青年は長椅子に腰を下ろす。
 結婚を急ぐのは、周囲のためでもあるし、娘自身のためにもなるからだ。
 貴族としての世間体のためでも、政略のためでもない。
「それなのに、彼女ときたら、あちらこちらへ。
 ああ、ここだけじゃないんだよ。
 ローザンブルグ城以外を点々と渡り歩いているんだ。
 あまりの腰の据わらなさに、みなハラハラしてる」
「ペルシ殿は?」
 聖王妃アネットと同色の双眸がペルシを見つめる。
「どっちでもいいかなぁ、って思ってる。
 もともと縛られるのを好む人間じゃないし」
 ペルシは首筋にふれる。
 ラメリーノ嬢は憂鬱の原因だった。
 彼女の前では歌えない。
 自分の歌が神に近しいのは知っている。
 それがローザンブルグ娘に、大きな影響を与えることも知っている。
 聖リコリウスが神から授けられたのは、御印の赤痣だけではない。
 時に天候まで左右させる大いなる力。
 それを封じることができるのは、神の御前である礼拝堂。
 あるいは、大神殿やローザンブルグ城だけだ。
 生れ落ちたときから手にしていた力は、3年たっても変わらない。
 ペルシの力は衰えない。
「それに、美しきローザンブルグの夏は、楽しまないとね」
 顔を上げ、ペルシは明るく言った。
「それでペルシ殿はかまわないのか?」
「ローザンブルグ娘の前では、男というのは哀れなものだ。
 それであの人の気が晴れるなら、かまわないよ」
 自嘲気味にペルシは微笑んだ。
「前の手紙にあったのだが、結婚されるというのは?」
「ああ、それ?
 父上もうるさくてね。
 そろそろ折れようかと思っている。
 王都から帰ってきたのも、そんな理由だよ」
 ペルシは言った。
 歌を歌えないなら、どこにいても同じだ。
 王都だろうと、ローザンブルグだろうと、みな同じ。
「結婚は、献身と互いの愛で成り立つと思っている。
 愛のない結婚は不毛だ」
 レフォールは言った。
 青年の立場を考えると、あまりに悲しい言葉だった。
 マイルーク子爵は、王命で愛のない結婚を強いられる。
「王女さまと仲良くなれそう?
 公爵が気にしていたよ」
「まだ、未来がある」
 レフォールは言った。
 それが落ち込んで聞こえたのは気のせいではないだろう。
 思うほどに思い返してもらえない。
 そんなこともある。
 仕方ないと割り切れるほど、単純な事柄ではなかった。
「そうだね。
 レフォール殿、私にも未来はあるんだ」
 ペルシは泣きたい気分で微笑んだ。


 いつものように、礼拝堂脇でたたずむ人影に声をかけた。
 子リスのように愛らしい乙女と会話するのは、心弾むことだった。
 彼女は、ローザンブルグ娘ではない。
 ペルシを毛嫌いしたりはしないのだ。
 嫌われない。
 たったそれだけのことが嬉しかった。
 歌を褒めてくれた。
 たったそれだけのことが、涙が出るほどに嬉しかった。
 神殿で巫女をしていただけあって、その言葉は公平で、温情にあふれていた。
 きっと還俗を惜しんだ者も多かっただろう。
 吟遊詩人が語る聖王妃よりも、噂話だけの白薔薇姫よりも、ずっと素晴らしく思えた。
 湖のほとり、二人は涼を求めて座る。
「ペルシさまは、いつも暑そうな格好ですね。
 そのように襟の高いお召し物で、暑くないんですか?」
 ガルヴィは尋ねる。
「王都に比べたら、まだ涼しいから。
 慣れてしまったよ。
 それにきちんとしていないと、従弟殿からも怒られてしまう。
 レフォール殿は、厳格だ」
 次期ローザンブルグ公爵にふさわしい従弟だった。
 羨望と軽い嫉妬を覚える。
 自分は従弟のように振舞えないから、諦めにも似ている。
「私は長いこと、ローザンブルグの人は寡黙だと思っていました。
 マイルーク城にいる方々は、仕事熱心で、私語をなさいません。
 大神殿よりも静かですから、そうだとばかり思っていたんです。
 でも、ラメリーノさまもペルシさまも、お話し上手で驚いたんです」
 乙女はクスクスと笑う。
「土地柄かな。
 嘘をついたり、隠し事をするのが苦手な人が多い。
 私は数少ないその例外なんだけどね。
 どうしても、本当のことを話せないときに有効なのは沈黙を保つことだ。
 マイルーク城は、身元のきちんとしている人間しか雇わないから、職業意識が高いんだろう。
 レインドルク城はにぎやかだよ。
 城主のリーク・スコレス・ローザンブルグが話し好きなんだ」
 ペルシは言った。
「確か、歌を歌っていい城でしたね。
 マイルークとローザンブルグと、レインドルク」
 歌うように乙女は数え上げる。
「レインドルク城に行くと、歌うどころじゃなくなってしまう。
 みな話し好きだから、ついつい話し込んでしまうんだ」
「それでは本末転倒ですわ」
 ガルヴィは楽しげに笑う。


 夏の終わり。
 マイルーク城では、パーティが開かれた。
 白薔薇姫の16歳の誕生日。
 髪に真っ白な薔薇を飾った少女は、美しかった。
 エレノアール王国の真珠と呼ばれた聖王妃アネットのように。
 清らかで、可憐な姿。
 その傍らに立つマイルーク子爵は、幸せそうだった。
 それを見て、ペルシも微笑んだ。
 始まりはどうあれ、周囲の思惑はどうあれ、二人は幸福な婚約者であった。
 従弟の幸せな姿を見て、安心して、ペルシはパーティ会場を抜け出した。
「どちらへ行かれるおつもり?」
 冷水をぶっかけられたような気分になる。
 一番会いたくなかった人物に、こんなときに会ってしまうとは。
 ペルシは笑顔を作り、振り返った。
 麗しき茨姫がいた。
 珍しくベールを被っているのは、今日はうるさ型がいるためだ。
「外の空気を吸おうと思って」
「あら、そうなの。
 少しの間、お待ちになってくださる?」
 貴婦人らしい命令に、ペルシはうなずいた。
「そうね。
 これが邪魔だわ」
 ラメリーノはペルシの長衣のボタンを外す。
「何を!」
「いいから、黙って」
 すべてのボタンを外し、ラメリーノは長衣を脱がそうとする。
 ペルシは、その手をつかむ。
「いったい、どういうおつもり――」
「ラメリーノさま、どんなご用件ですか?」
 ガルヴィが小走りで近寄って、足を止める。
 乙女は顔色をかえ、息を呑む。
「これは、その」
 ペルシは弁解しようとするが、ガルヴィは首を横に振る。
「そんな……、その痣は」
 乙女のつぶやきに、青年は気がつく。
 彼女が気にしているのは、二人の関係ではなく、自分の首筋にある赤痣だ。
「王女と」
 本当に小さい声だった。
「ええ、同じものよ。
 これは神のくださった聖徴。
 ローザンブルグの秘されたる恩寵よ!」
 高らかにラメリーノは告げ、ベールを取る。
「なんてことをするんですか!?」
 ペルシはラメリーノの手を払う。
「ガルヴィ嬢、今見たことは忘れるんだ。
 君は何も見ていない。
 君は何も聞いていない。
 約束してくれ」
 痛いほどの視線だった。
 黒い瞳は、射るように真っ直ぐとペルシを見つめる。
「あら、欺瞞よ。
 彼女は王女の着替えを手伝っているんですもの。
 遅かれ、早かれ、この事実を知ったわ!」
 ラメリーノは言った。
「だからと言って、一族の集まる場所でこんなことをしたと知れたら……。
 彼女の自由は失われる」
 ペルシは焦る。
 聖リコリウスが神から授かった赤痣の秘密を守るため、ローザンブルグ公爵家は存在している。
 赤痣を持たない者には、秘さなければならない。
 たとえ、どんな手段を使っても。
「時は戻らない、ペルシ殿」
 一番聞きたくない声だった。
 ローザンブルグ公爵その人の声に、ペルシは口を引き結んだ。
「私の落ち度です。
 ガルヴィ嬢には何の罪はありません」
 ペルシは言った。
 この言葉にどれほどの意味があるだろうか。
 青年にはわからなかった。

 ◇◆◇◆◇

 時間が凍ってしまったようだった。
 ガルヴィは座り心地の良い椅子に腰掛けながら思った。
「この秘密は、守り通さなければならない。
 そのために私たちは存在している」
 公爵ソージュは言った。
「今見たことを、誰にも話しません。
 一生秘すると誓いを立てます」
 ガルヴィは言った。
 王女に関する秘密であるというなら、たやすいことだった。
「沈黙の誓いを立てるだけでは足りない」
 ソージュは言った。
 ガルヴィはひざの上の指を組む。
 神に祈りを捧げるときのように、きっちりと。
「私の命であがなうことができるでしょうか?」
 声が震えないように気をつけて、ガルヴィは言った。
「悲壮な覚悟だ。
 昔であれば、そうしていたところだろう。
 だが、今のご時世に合わない。
 ベルシュタイン侯爵令嬢が突然亡くなったら、大騒ぎだ」
 ソージュは言葉を切る。
 ためいきを一つつき、椅子に座る青年を見やる。
「そこに私の甥がいる。
 ペルシ・サルファー・ローザンブルグ。
 もう、お知り合いかな?」
「はい」
 ガルヴィはうなずく。
「どうだろう?
 彼はなかなかの好青年だ。
 王都に3年ほどいたこともあって、片田舎に不釣合いなほど垢抜けている。
 場を和ませることも得意だし、歌も得意だ。
 彼と結婚すれば、ガルヴィ嬢もローザンブルグ家の一員だ。
 ローザンブルグの秘密を知っていても、なんら不思議はない」
「伯父上。
 愛のない結婚は不毛だと口ぐせのように、おっしゃっていたあなたが……!
 どうして、そんなことを……おっしゃるのですか?」
 ペルシが口を挟む。
「ラメリーノが、あの場で、あんなことをした意味を私なりに考えたんだ。
 あの娘は賢い。
 ローザンブルグの秘密を話すのに、どうしてペルシ殿を利用したのか?
 ラメリーノにも聖徴はある。
 話すだけなら、自分自身で事足りるのだ」
「……それは」
「あの娘なりの優しさではないだろうか。
 この後は、良く話し合いたまえ。
 無駄に血を流したくはないのだがね」
 ソージュはそう言うと、立ち去った。
 居心地の悪い沈黙が漂う。
「光と共に、光と共に。
 神は常に傍におられる。
 我と我らを見守られている」
 口について出たのは、聖典の一くさり。
 ガルヴィは心が光で満ちたような気がして、ほっと一息つく。
「受難の第三場だ。
 そう言いながら天を見上げると、空はにわかに晴れ渡り、大地は光に満ちた。
 嵐は唐突に去り、王は旅を続けることができた。
 …………君にとって、これは嵐だろう」
 ペルシは小さく笑った。
「神が与えたもうた試練であるならば、お受けいたします。
 この世にあるすべての事柄は、神が私のためにご用意なされたものです。
 別れも、出会いも」
 ガルヴィは言った。
 心が澄んでいる。
 ガラスのように透明になって、光を受けている。
 恐怖は静かに凪ぎ、信仰の炎が強く輝く。
 どんな運命も受け入れられる。
 死は神の御元へ行くだけのこと。
 恐ろしいことではない。
「歌を褒められたのは、初めての経験だったんだ」
「とても素晴らしい歌でしたわ。
 もっと自信をお持ちください」
 礼拝堂で聞いた歌を思い出し、ガルヴィは言った。
 心が光でどんどん満たされていく。
「だから。
 こんなことを頼むのは……君を馬鹿にしているようだ。
 それでも、言わずにはいられないんだ」
 ペルシはガルヴィの傍にひざまずくと、その手を取った。
「私の妻になってくれないか?」
「え」
 死を覚悟していた乙女は驚く。
「君に死んで欲しくないんだ」
 青鈍色の瞳は、真剣だった。
「愛のない結婚は不毛だ、と……」
 ガルヴィはつぶやく。
「伯父上の意思は岩よりも強固だ。
 君の愛を得られなくても、君が死ぬよりはマシだ」
 ペルシは言った。
「どうしてですか?」
 生まれて初めて聞く求婚に、声が震える。
 突然ことに驚いているし、真剣な眼差しに見つめられることに慣れていないからだ。
 でも、それだけではない。
 頬が熱くなるのを感じる。
 目が潤むのを感じる。
 泣き出してしまいそうだった。
 死を覚悟したときには零れなかった涙が、今は零れ落ちそうだった。
「君を愛しているからだ」
 青年は簡潔に言った。
「マイルークとローザンブルグと、レインドルク。
 この3つの城の礼拝堂は、歌を歌えるんですよね。
 また、歌を聞かせてくださいますか?」
「もちろんだ。
 君が飽きるまで、何度だって歌う」
 青年はパッと顔を輝かせる。


 それから数日後。
 レインドルク伯爵公子とベルシュタイン侯爵令嬢の婚約が整った。
 この婚約の立役者は、レインドルク侯爵令嬢ラメリーノ・ガレナ・ローザンブルグだという噂が真しやかに流れた。
 真偽は、神のみぞ知る。



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