T・野茨の姫

Kyrie eleis


 ローザンブルグ地方レインドルク伯爵領、レインドルク城。
 貴婦人の城と呼ばれるこの城は、たいそう優美な外観で知られる。
 白亜の城に、高い城壁。
 小高い丘に建つそのたたずまいは、まさしく貴婦人そのものだった。
 
 今日も、レインドルク城には雨が降る。


 少年が木戸を開ける。
 螺旋階段を上り、物見の塔の最上階。
 この平和では使用する者などいない塔は、子どもたちの絶好の隠れ家だった。
 城主の甥であるシブレットは、黙々と歩く。
 やがて、塔の片隅。
 荷箱がつまれているその影に、探し人を見つける。
「ラメリーノ」
 シブレットは従妹の名前を呼んでみる。
 答えは返ってこない。
 少年は、窓を叩く風に眉をひそめる。
 風が強くなったようだ。
 シブレットは冷たい石の床に腰を下ろす。
 従妹姫から一歩分、離れた場所だ。
 そのまま時は静かに流れていく。
 シブレットは濡らさないように外套の下から、本を一冊取り出す。
 しおりを頼りに、読みかけの場面を見つけ出す。
 王都から取り寄せてもらった本は、ロマンチックな恋物語。
 少年の詩的な魂は、時に登場人物になりかわり、時に神のように行方を見守る。
「怒らないの?」
 不安げな声がささやく。
 シブレットはページをめくる。
「怒って欲しいのかな?」
「そうじゃないけど」
 5つ年下の従妹姫は口ごもる。
「私は誰かを叱るということが苦手なんだ」
 シブレットは言った。
「私は悪くないのよ」
 ラメリーノは言った。
「ならば、そうなのだろう」
「ペルシが歌を歌ったのよ。
 礼拝堂じゃない場所で。
 良くないことなんでしょう?
 だから、私は……」
「良心に恥じない行動ならば、卑屈になる必要はない。
 神は顔を上げることを望んでおられるよ」
 淡々とシブレットは言った。
「……ごめんなさい」
 ラメリーノは言った。
 うるさいほどに窓を叩いた風は、いつの間にか止んでいた。
 シブレットは、窓の外を見る。
 雲がゆっくりと流れていき、外は光で満ちていく。
「ほらごらん、ラメリーノ。
 天使のはしごができているよ」
 シブレットの言葉に、ラメリーノは顔を上げる。
「雨上がりも良いもんだね。
 外が綺麗だ。
 晴ればかりでは、この美しさはわからない。
 違うかな?」
「はい、兄さま」
 少女はうなずいた。

 ◇◆◇◆◇

 季節は秋に向かいつつあった。
 エレノアール王国の北の秋は、早く駆け抜けていく。
「人生の春だね。
 こうして幸せだと、兄がどうしているのか。
 深く考えてしまうよ」
 ためいきと共にペルシは言った。
 レインドルク伯爵家の跡継ぎらしい、夢見るような発言だった。
「シブレット殿なら、我が領地に立ち寄ったらしい」
 マイルーク子爵レフォールは言った。
 きょとんとした二対の瞳を見て、ペルシは微笑む。
「兄といっても実の兄ではないんだ。
 シブレット兄上のお父上と、私の父が双子で、つまりは従兄弟同士なんだ。
 絵を描くのが好きで、ローザンブルグ中を渡り歩いているんだ」
 ペルシは愛らしい婚約者と従弟の婚約者に説明する。
「そうなんですか」
 ガルヴィは言い、セルフィーユはこくんとうなずく。
 4人だけの優雅なお茶会は、それとない世間話で始まった。
 領地に引っ込んでいるばかりのレフォールと違い、あちらこちらで伝令役を任されるペルシはさまざまな話を見聞きしている。
「とても素晴らしい方でね。
 実の兄になってくれないか、とレフォール殿には悪いけど、本気で思っていた時期があったよ。
 雷が縦横無尽に駆け回る空を見ても、平然としていらっしゃったからね」
 懐かしいとペルシは思った。
 ローザンブルグ娘を身内に持てば、ままあることよ。と笑ってなどいられなかった。
 嵐が来る夜は、ただ恐ろしく、ペルシは神に祈りを捧げることぐらいしかできなかった。
「どうして、レフォールさまに悪いのですか?」
 無垢な王女が尋ねる。
 ペルシは従弟の顔色をうかがう。
 聖王妃アネットと同じ色の瞳は先を促した。
「姉上である我らが茨姫とレフォールは、ちょうど良い組み合わせだから、だいたいの人間が思っていたんだ。
 二人は近いうちに結婚するだろう、と。
 もちろん、そうならなかったのは白薔薇姫が一番ご存知だろう」
 ペルシは微笑んだ。
「申し訳ありません」
 セルフィーユは頬を染めうつむいた。
「茨姫も、結婚する気はなかったようだから、周りばっかり盛り上がった悪い例だよ。
 ローザンブルグ娘の夫となると、幼なじみが適任だというのはわかるけどね。
 泣いただけで雨が降るし、怒っただけで雷が落ちる。
 嬉しいことがあって浮ついていると、晴ればっかりで日照りになる。
 ああ、誤解しないでください、白薔薇姫。
 これはあくまで姉の話です。
 それに幼い頃はそうだっただけで、今ではだいぶ落ちつきました」
 ペルシは弁解する。
「その方は大変素晴らしい人だったんですね」
 ガルヴィは微笑んだ。
「尊敬している」
 ペルシは答えた。
「シブレット殿とラメリーノ姫との間に、何かあったのか?
 叔父上方から、口止めをお願いされた」
 レフォールは言った。
 あくまで『願い』だから、聞く義務はないと言外に漂わせていた。
 16歳で城主となっただけあって、従弟はしっかりしている。
 自分とは大違いだ、とペルシは内心で苦笑する。
「何もないよ。
 私の知る限りでは、あの二人は年に一度会うか、会わないかだ。
 一族の集まりのときに顔をあわせる程度で、何が起きるというんだい?
 伯父上方が警戒しているのは、茨姫が兄上についてどこかへ消えることだよ。
 だから、姉上には話すな、と言いたいんだろう」
 ペルシはためいきをついた。

 マイルーク城の城壁代わりの森を散策する。
 森はすっかり秋支度が終わったようだった。
 葉を染め、ハラハラと落とし始めている。
 落ち葉の音を楽しみながら、ペルシとガルヴィは歩く。
「シブレットさまに、お会いしてみたいです」
 子リスのような印象の乙女は微笑んだ。
「白薔薇姫の誕生日にも出てこられなかったから、次はどうだろう。
 新年の集まりには、顔を出すかな……」
 だが争いを好まない従兄のことだ。
 茨姫の結婚が決まるまで、集まりには顔を出さないかもしれない。
 これといった崇拝者を持たない茨姫は、やっかいな存在だった。
 結婚させようにも、めぼしい相手がいない。
 棘にまみれた物腰に、多くの人間が及び腰になる。
「私たちの結婚式には来てほしいから、お手紙でも差し上げようか」
 ペルシはつぶやいた。
「気難しい方なんですか?」
「いや、逆だよ。
 …………兄上!」
 青鈍色の瞳は従兄の姿を捉える。
 伯爵家の者としては質素な姿ではあったが、その頭髪はローザンブルグ一族のもの。
 道の前を歩いていた青年が立ち止まる。
 やや黄色がかった茶色の髪に灰青色の瞳。
「ペルシかな?
 ずいぶんと大きくなったんだな」
 嬉しそうに青年は微笑んだ。
「お久しぶりです、兄上。
 お元気そうで良かった。
 こちらはベルシュタイン侯爵令嬢ガルヴィです」
「初めまして」
 ガルヴィはドレスの裾を持ち、優雅に礼をした。
「初めまして、ガルヴィ嬢。
 婚約おめでとう。
 あなたのように可愛らしい方がペルシの妻になってくれて、嬉しいよ」
 シブレットは穏やかに言う。
「どこでその話を?」
「叔父上からだよ。
 一月に一度、手紙のやり取りをしているから、それで知った」
 ペルシの問いに青年は答える。
 いつの間に、という思いがあった。
 従兄が家を出る際の取り決めだったのだろうか。
 微塵もその様子を見せなかった父に、何か思惑があるのだろうか。
「ラメリーノは元気にしているかい?」
 シブレットは尋ねた。
「ええ、元気ですよ。
 あちらこちらで、騒動を起こしてます」
 その騒動の一つで、婚約が決まった身としては、複雑だった。
 ペルシは苦笑した。
「それならいい。
 昔ほど空に出なくなったから、見上げたところで彼女の気持ちがわからない。
 だから、気がかりだったんだよ」
 鉛色の双眸が空を仰ぐ。
 去り行く夏の面影はなく、白い雲が糸のように広がっている。
「茨姫も大人になったんでしょう。
 巻き込まれる側としては、大助かりです」
 ペルシは言った。
「そういうものなのだろうね。
 ところで一枚、スケッチしてもかまわないかな。
 次は人物をテーマにしたいと思っているんだ」
 シブレットはにこやかに言った。
 婚約者の様子を一瞥してから
「かまいませんよ」
 ペルシはうなずいた。

 自然な姿がいい、とシブレットは言う。
 二人は湖のほとりに腰を下ろし、いつものように話をする。
 黙々とスケッチするシブレットは風のような存在で、意識をこらさないと忘れてしまう。
「そろそろ林檎の実が取れるころですね」
 ガルヴィは言った。
「まだ、もう少しかかりそうだ」
「一つ目の林檎は神に捧げてから、焼き林檎にするのですか?」
 乙女はクスクスと笑う。
「毎年の楽しみなんだ。
 どこの城の料理長も、美味しい焼き林檎を作るよ。
 焼きたての林檎に蜂蜜をかけて食べるとき、幸せな気分になる。
 太陽の光を食べている気になるんだ」
「ペルシさまの話を聞いていると、私まで焼き林檎を食べたくなってしまいます」
「今年初めの焼き林檎は半分ずつにしよう。
 2倍幸せな気持ちになれる」
「楽しみです」
 朗らかな笑顔でガルヴィは言った。
「ありがとう。
 スケッチができたよ」
 シブレットは立ち上がる。
「どちらへ、行かれるおつもりですか?」
 ペルシは慌てて尋ねる。
「マイルーク城の城主は、レフォール殿だったかな?」
 シブレットはぼんやりと言う。
 世間からやや離れたところで暮らしている従兄は、現のことに心もとないようだ。
「はい。3年前からそうですよ」
 ペルシは微笑を浮かべたまま答える。
「一部屋お借りしようと思っている。
 きちんとした絵を描きたくなった」

 こうして、マイルーク城に優雅な客人が増えたのだった。

 ◇◆◇◆◇

 レインドルク伯爵家の相続問題というのは、頭が痛いものだった。
 それはどの時代であっても同じこと。
 現当主に決まるまでも、かなりの期間話し合いがもたれた。
 リーク伯爵には、双子の兄アンサンシュがいた。
 最初はこの兄が伯爵家を継いでいたのだが、アンサンシュは夢の世界の住人だった。
 実務能力はゼロ。
 それでもリークはよく兄を守り立てて、形式だけとはいえアンサンシュは当主であった。
 数年後、夢の住人はまどろむように呆気なく、儚くなった。
 遺されたのはまだ3つの息子一人だけ。
 その息子の名はシブレット・ベリル・ローザンブルグ。
 まさか三歳児に執務を執らせるわけにはいかない。
 リーク・スコレス・ローザンブルグが暫定的に、当主になったのだ。
 もちろん、シブレットが成人するまでの間だけという約束だった。
 ところが16歳の誕生日を迎えたシブレットが望んだのは、レインドルクの継承権の破棄だった。
 親戚一同、シブレットを止めに入ったのだが、意思は堅かった。
 リークは名実共に、伯爵になったのだった。
 こうして、ラメリーノは伯爵令嬢になったのだった。
 5つ年上の従兄に文句の一つでもつけたかったのだが、従兄はスケッチブック片手に城を後にしていた。
 夢見がちな血を色濃く引いた少年は、風のように消えたのだった。
 発見されるまで1年。
 その頃には、レインドルク領民はリーク伯爵に慣れていた。

「ラメリーノ!
 あなたは伯爵令嬢なのよ。
 わかっていますか?」
 アンゼリカ夫人は怒鳴りつけた。
 ことさら体面を気にするのは、貴族出身でないためだ。
 裕福な商人の娘に生まれたアンゼリカが、当時ローザンブルグ公爵公子だったリークの熱烈な求婚に、辟易して承諾したというのは有名な話だった。
「ごきげんよう、お母さま」
 ラメリーノは笑みを浮かべたまま言った。
「リークさまにご迷惑をおかけして、悪いとは思っていないようですね。
 これで何回目ですか?」
「さあ、数えていないのでわかりませんわ」
 嫣然とラメリーノは言う。
「12回目です。
 あなたのために開かれたパーティでしたのよ」
「ご苦労様ですわ。
 ですが、私は開いてほしいと言った覚えはありませんわよ!」
 夏から今までに、レインドルク城では12回ものパーティが開かれたという。
 尋常ではない数だ。
 そのすべてが顔合わせのためのパーティなのだから、伯爵家の焦りはわかりやすい。
「あなたの幸福のためよ。
 今は落ち着いているけれど、きちんとした相手を見つけなければ」
「その考えが嫌なのです!
 女の幸せは、結婚だけではありません。
 信仰に生きるのも一つの幸せかもしれませんわ」
 ラメリーノは言った。
「では何故、聖王妃は嫁いだのかしら?
 聖王女はレフォール殿の元へ嫁ぐのかしら?
 ミルラは、ローザンブルグ公爵夫人になったのかしら?」
 アンゼリカはあごを上げ、娘を見やる。
 ラメリーノは唇をかむ。
「ローザンブルグ娘は、嫁いでこそ幸福になれるんじゃないかしら?」
「今まで、どうにかなりましたわ。
 これからも、何とかなります。
 お話はそれだけですの?
 失礼します」
「お待ちなさい、ラメリーノ!」

 母の気持ちもわからなくはない。
 ベッドに身を投げ、枕を抱きかかえる。
 ローザンブルグ娘たちは、みな結婚する。
 時に天候まで左右させる力を持て余し、男に頼るのだ。
 異能が処女性と関わっているのかもしれない。
 結婚したローザンブルグ娘たちは、力の制御を覚える。
 みだりに天候を変化させたりしなくなるのだ。
 ラメリーノは己の聖徴にふれる。
 薄紅色のそれは、同年代の娘たちにはないもの。
 ラメリーノは十数年ぶりに生まれたローザンブルグ娘だった。
 周囲が扱いに困っているのがよくわかった。
「好きで生まれてきたんじゃないわよ」
 ラメリーノはつぶやく。
 生まれたときから、ローザンブルグ娘だった。
「伯爵令嬢なんて、もっとなりたくなかったわよ」
 身分にふさわしい男性との結婚。
 重荷でしかなかった。
 ただのローザンブルグ娘なら、もっと好きなように生きれた。
 美しいこの地方を小鳥のように渡り歩いて……。
 愛する男性と出会い、結婚しただろう。
 けれども、ラメリーノは伯爵令嬢なのだ。
 ひどい、となじることなどできなかった。
 兄のように傍にいてくれた従兄。
 成人してからというもの、ほとんど顔を見せてくれない従兄。
 ラメリーノが嵐を起こしても、怒らなかった。
 話を聞いてくれた。
 自分の欲など持たない人がぽつりともらした言葉。
 美しいものを絵の中に残しておきたいんだ。と、スケッチブックを抱えていた。
 いつか描いてほしいと言ったら、もちろんだとうなずいてくれた。
   『もっと、世界を見て回りたい。この世界で一番美しいものを見つけたい』
 ラメリーノは従兄の願いを知ってしまったから、ひどいと言うことができなかった。
 面影すらおぼろで、記憶は忘却へと向かっている。



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