#01. Select the name of ――

 名前は与えられるものだと思っていた。
 けれどもネットの中では違う。
 それを教えてくれたのは《黄昏》だった。

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 《黄昏》はまだ若い男で、何よりアルコールが好きだった。缶ビールにたまらない美学を感じるタイプの人間だった。脳細胞が破壊されるのもかまわず、アルコールを摂る。
 ただ、彼なりのルールがあるようだった。
 彼はアルコールを摂取するとき、自転車であっても乗らなかった。道路交通法65条を遵守していた。意外に知られていない法律で、飲酒運転は、自転車でも、リアカーでもあっても、罰則が設けられている。
 成人男性がルールを守って、節度あるアルコールの摂取をしている場合、止めることなどできない。私には止める資格がないのだ。
 止める気も、あまりなかったが。
 私が《黄昏》のアルコールを快く思わないのは、アルコールを過剰摂取すると、肝硬変などを起こし、寿命が縮む、という点に置かれている。
 つまり私は《黄昏》に死んで欲しくないのだ。
 「身近な死」は、何度経験しても良いものではない。
 だから私は《黄昏》には、私よりも一秒でも長く生きて欲しいと思うのだ。

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 《shi》という言葉は、エスペラント語による。耳慣れない言葉だが、それもまた当然である。エスペラント語とは、世界共通語を作ろうという壮大なる計画によって作られた、新しい言語なのだ。私はその動きに賛同したわけではないが、気になった。
 《黄昏》の部屋にあった薄い本に書いてあった『shi』という言葉に惹かれたのだ。発音記号にも似たつづり。簡素で魅力的であった。
 私はそれを記憶した。
 程なくして《黄昏》がインターネットの活用法を教えてくれた。初めはIP電話による通話だった。次は巨大な掲示板群だった。それから、インターネット上のゲームであった。
 本名でのログインは危険だから、HNをつけるように言われた。
 このとき《黄昏》は、まだ《黄昏》ではなかったと記憶している。彼はいくつかのHNを状況に合わせて、使いこなしているようだった。その全ての名を私は知らない。おそらく《グングニル》なら把握しているだろうが、私はそこまでして《黄昏》の過去を知ろうとは思っていない。
 ……知るのが怖いのかもしれない。
 《黄昏》の過去を知るのは、あまり愉快な事柄ではない。それはこの先でも変わらない考えだ。《黄昏》自身が語るときは、聞こうと思う。それは私の役目のような気がしている。
 ただの錯覚でなければ良いのだが。
 良くも悪くも人間は、思い込みで生きているのだ。私が《黄昏》に対して過度の期待や、思い込みをしていても、《黄昏》に負担がかかっていなければ、かまわないはずだ。
 私は《黄昏》の勧めもあって、ネットゲームで名乗る名前を、選んだ。
 自分の名前を自分で選ぶ。
 奇妙な経験だった。名前とは与えられるもので、変更することはできない。そう思っていた。これもまた、思い込みだったようだ。

 私は《shi》を選んだ。

 この瞬間から、私は《shi》になったのだ。《黄昏》は不思議そうな顔をしていた。が、何も言わなかった。彼はとても思慮深い人間なのだ。
 私は私の名前である《shi》が好きだ。初めて自分で選んだものだからかもしれない。そう呼ばれることを好んでいる。《黄昏》も、私を《shi》と呼んでくれる。
 戸籍上の名前よりも好きだ、と言ったらやはり《黄昏》は、微妙な顔をした。
 それから「一つしかないから、大切にしろ」と言った。
 《黄昏》は常識人だ。だから常識的なことを口にする。私は常識から外れていることを《黄昏》と会話するたびに気づかされる。
 私は《黄昏》と会話をすることをやめないだろう。

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 エスペラント語で《shi》は「彼女」という意味を持つ。
 三人称代名詞が、私には合っているような気がする。主体性のない、私には似つかわしい。不特定多数に紛れ込むことができる。識別のできない「彼女」だからこそ、私は生きていける。
 畢竟、私という生き物は特定をされることが嫌いなのだ。私は群集の中で埋没してしまいたいのだ。誰からも期待されず、誰からも頼られない。そんな蒙昧な人間でいたいのだ。
 日本人らしい小市民的な幸せに憧れている。
 まだこのことは《黄昏》には話していない。何となく予感しているからだ。《黄昏》は、HNごと私の考えを否定するだろう。
 それは楽しい未来ではない。
 だから、私は選んだ理由を《黄昏》に告げるつもりはない。
 俗に言う「墓場まで持っていく秘密」なのだろう。
 《黄昏》に、この秘密を知られないことを祈る。彼の知る権利を奪うことになってしまうが、それも致し方がない。私には守るべき心の領域があり、《黄昏》はそれに関われる資格を持っていないのだから。ちょうど私が《黄昏》の過去を詮索する資格がないのと同じだ。
 もし、お互いにその資格を得た後に、権利を主張されたら、私は話すことになるのだろうか。未来は茫洋としてつかみどころがない。
 私が《shi》の名を得ることも、数年前には考えてもいなかった未来だ。
 だから、これから先のことは、もっとわからない。

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