#03. Dream come true.

 雨の夕方は《黄昏》を見ることができない。
 雨だから《黄昏》が見られないのか。《黄昏》だから、雨の日は見られないのか。それとも――。

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 私は体を起こす。といってもフローリングの床に肘を支えにして、上体を起こしているだけだ。それを「起きた」と言っていいのだろうか? 世間一般の答えはさておき、私はそのまま横に転がっていく。
 物を最小限にしか持たないシンプルな生活。流行の暮らしを実践しているわけではないが、私の家には無駄なものが少ない。それは私の性格に起因しているのだろう。物を持つことが苦手なのだ。
 そのため、この家では横に転がっていっても障害物に引っかかることは少ない。
 私は順調にゴロゴロと床を鳴らしながら、窓際まで転がっていく。
 立ち上がり、歩いたほうが早いのは知っている。またそうしたほうが女性らしく、いや人間らしい行動だということも知識としてある。
 「ここ」は私が賃貸契約を結んでいる部屋で、「今」来客がない状態なのだ。これは致命的な損壊を与えるような迷惑行為ではない。見咎める人物もいない。私の気が少しばかり楽になり、だらしなくなったところで、かまわないだろう。私の転がりながらの移動が世間に大きな一石を投げることと同義なら、私は人間らしく悩み、途惑い、不安になるだろう。
 が、今まで深刻な話題になったことは当然ながらない。よって、私は転がりながら移動するのだった。
 カーテンレールからつるされたレースのカーテンが揺れる。真っ白な薄手の布はオーガンジーだ。絹の艶やかさも捨てがたかったのだがメンテナンスを考えて化繊にした。エメラルドグリーンのガラスビーズとリボンステッチが、裾を始末をしただけの布を女性らしい「カーテン」にする。
 風に色を与えるとしたら「緑」だ、そうだ。
 色なき風と詠んだ歌人たちの立場が危うくなる言葉を口にしたのは《黄昏》だ。広い見識を持つ人間だ。何かしらの由来があるのだろう。私は薄学ゆえに、その由来を知らない。
 カーテンが揺れる。緑の色を隠しながら、さらしながら。見えない風を形而下にする。日常の中にも哲学はあり、堕落した人物の中にも哲学は存在しているのだ。積極的に思考しているか、していないのか。差があるだけだ。その差はどこまでいっても差であるから、哲学の味を知ったものだけがその禁断の実の味を知る。
 私はそれでいい、と思っている。人は人の形をしているだけで、中身までそっくりになる必要はない。
 カーテンが揺れる。微風が起きているのだ。
 私は這いずりながら窓枠をつかみ、膝をつく。
 灰色の空から雨が降る。
 この国は降水量が多いから特筆するようなできごとではないが、雨が降ると「雨が降った」と思う。そこに潜む感情は、残念さだったり、寂しさだったり、不満であったり。特定するのも難しい、コーヒーの中で渦巻いていくクリームのようだ。
 雨を眺め、その音を聴くのは、心安らぐ事柄に属していたので、私はしばらくの間そうしていた。

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 雨の日でも夕方はやってくる。
 晴れた日ほど鮮烈ではなく、劇的ではないものの、黄昏の時間はやってくるのだ。青い星ができてからの決まりごとで、人類が誕生する前からくりかえしている事柄だ。昼とも夜ともつかない曖昧な時間は、太陽不在の今、混迷ですらある。
 けれども、窓を開け、弱々しい光の中、じっと待っていれば黄昏はやってくるのだ。ほんの一瞬。夜になる前に、それを捕まえることができる。
 空気が歪み、密度が変化し、終焉が訪れる。
 場を支配するのは叙情的な静寂。
 五色の雲もなければ、ステンドグラスのような空もない。黄みの強い可視光線もない。
 だが、ここには黄昏があった。
 一日に一度だからこそ美しい日没だ。その価値は晴れの日でも、雲の日でも、雨の日でも変わらない。太陽が肥大してこの地球を丸呑みするまで、日は昇り、沈むのだろう。永遠の白夜の世界もあるというが私には興味がない。今、ここで黄昏を待てることが嬉しいのだ。
 明日のこの時間のために、私はまだ息を吸い、吐き、続ける。
 私は不思議な決め事をくりかえし暗唱する。

 携帯電話が鳴った。

 雨の夕暮れの空気を打ち消すように、それは大きな音を立て自己主張する。
 私は顔を向けるだけで、立ち上がらなかった。携帯電話でメールをやり取りするような親しい友人はいない。お決まりの「迷惑メール」だろう。それはやがて沈黙するだろう。私は耳を雨音へと傾ける。
 テーブルの上に置かれていたそれは、ゆっくりと端までやってきて、床に落ちた。カーペットの敷いていない床であったから、その音は大きく、痛々しかった。フローリングにできる傷の修復は面倒だ。あとで専用の修復材を購入しなければならない。ネットで注文した方が早いだろうか。
 落ちてもなお、携帯電話は鳴り続ける。それこそが本人の意思だというのだろうか。
 私を呼び続ける。
 無機質なそれは他ならぬ「私」に知らせ続けるのだ。
 私は手を伸ばして、携帯電話をつかむ。握りつぶせそうなほどコンパクトな精密機械。声を届け、言葉を届けるもの。
 サブディスプレイに見知った名前があった。
「はい」
 私は携帯に出た。

――寝ていたのか?

 電話から名乗るという文化が廃れたのは、携帯電話が発売され、一般化されてからだろう。携帯電話で名を名乗りあうことは前時代的だ。誰からかかってきたのか、誰にかけたのか、明確な状態で名を名乗るというのは無意味な一手間というところだろうか。

「《黄昏》ではあるまいし。
 この時刻に眠ることはない」
――まあ、いい。
  変わったことはないか?
「問題ない。
 平常どおりの一日だ」
――……。
「何の用だ?
 まだ就業中だろう」
――声が聴きたくなったんだよ。
  元気にしているなら、いい
「仕事は良いのか?」
――ん? ああ。
  大丈夫、休憩中だ。
「《黄昏》は勤勉だな」
――働かなきゃ、食っていけないだろ?
「労働災害はどうだろう?
 車椅子生活も悪くはない。
 交通事故で10・0か9・1で被害者側に回れば――」
――せっかく五体満足で生まれてきたんだ。
  勝手に損なうわけには、いかんだろうが。
「そういうものか」
――働くのは嫌いじゃない
「タイプAは心臓疾患を抱えるケースが多い。
 長生きができない」
――勝手に当てはめるな。
  こう見えても、健康には気を配っている
「初耳だ」
――ビジネスマンの流行ってヤツだよ。
  健康志向が増えてきて、いくつか情報を仕込んでおかないと上司と話が合わなくなる。
「みな、長生きがしたいのだな」
――ちょっとは気にしろよ
「忠告、感謝する。
 ところで「声を聴く」という目標は達成できたのだろうか?」
――ああ、安心したよ
「安心とは?」
――今日も雨が降っていただろう

 黄昏は去りいき、世界は夜を出迎えていた。街灯に切り捉えられた部分だけ、雨の雫の形がはっきりとする。それ以外は重々しいダークグレーとなり、憂鬱は暗鬱へと変化して、音だけが澄んでいる。

――本当は会いに行こうと思ったんだ

 いつの間にか無風状態になっていた。カーテンは揺れない。風は色と形を同時に失って、空気になったのだ。私を包む湿った空気になったのだ。

「雨の日に?」
――だから
「私は生きている」

 何て陳腐な言葉だろう。いちいち言わなければならないことが、馬鹿馬鹿しい。生きているから電話に出ることができるというのに、それを電話口で伝えるという行為は無意義だ。伝達の道具はその価値と多様性を無視されるのだ。

――これが録音だったら、気持ち悪いなー。
  元気にしているか、確認だ。
  生きてるなら、それでいい。
  邪魔したな

 通話が終了した。
 私は何も言わなくなった携帯電話を握ったまま、寝転がる。
「一方的だ」
 発明されて以来、電話が一方的でなかったことはないのだが私は愚痴ってみた。
 《黄昏》は「声が聴きたい」と言った。だから携帯電話を使用した。私は携帯電話で通話した。0と1の暗号化された電波が《黄昏》の願いを叶えたことになる。
「聴きたいときに相手の声が聴ける。
 どこにいてもつながる。
 すぐに聴ける」
 私は頭の中を整理する。便利な道具だから携帯電話の市場は大きくなる一方だ。願いを叶えてくれる。光は地球を七週半する速さでもって、二人の距離を限りなくゼロに近づける。


 私は目をつぶり、息を吸って、吐いた。

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  1. 色なき風……和歌の「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」に基づくそうです。 『古今六帖』 紀友則・作
  2. 形而下《けいじか》……形を備えたもの。物質的なもの。[引用元:Yahoo!辞書]
  3. 作中で言及される「タイプA」とは「タイプA行動パターン」のこと。こちらのサイト「タイプA 性格と心臓病」にわかりやすい説明があります。