天体観測



 その日の予報は『曇り』だった。

 ゴールデンウィークは、どうしてゴールデンウィークと呼ぶのか、私は寝転がりながら考えていた。別に、黄金週間でも良いと思う。けれど、現実では「黄金週間」と書いてゴールデンウィークとルビを振る。いっそのこと、すっぱりと「ゴールデンウィーク」だけにしたらどうだろうか。そっちのほうがスッキリとしている。そんなことを私が、ここで考えていても、世間は「黄金週間」と書いて、ゴールデンウィークと呼び続けるのだろう。一見理解し難い、二つのメッセージを発するその表記は、日本人らしい感性によって支持され続けるのだ。今日も、明日も、明後日も。
 私は空を仰ぐ。灰色の雲に覆われている空は、実に天体観測に不向きだった。初夏とは名ばかりの冷たい風が吹き、駐車場を取り囲むように植えられた木立の枝を揺らす。夜闇の中の木々たちは、江戸川乱歩のミステリーにそのまま出演できるような、見事としか言えない独特の雰囲気をかもし出していた。
 閑静な住宅街の中にある駐車場は、この時刻に相応しく静かだった。車たちも寡黙で、私だけが呼吸をしていた。
 田舎の駐車場に似合いの砂利を踏む音がした。静かだから、その音はよく響く。ジャリ、ジャリッと、小さくいびつな石たちがこすれあって、それはまるで何かの悲鳴のようだった。
 規則的な音が止まった。
 私の視界に≪黄昏≫が入ってくる。
「何やってんだ?」
 ≪黄昏≫は言った。≪黄昏≫は、まだ若い男だ。人気のない閑静な駐車場よりも、駅前のコンビニの駐車場が似合うような男だった。
「天体観測」
 私は答えらしきものを返した。
 律儀なところがある≪黄昏≫は、空を見上げる。銀色の光が走る。≪黄昏≫のピアスが駐車場の申し訳程度のライトに反射した光だった。まるで、それは流星のように、一瞬を駆け抜けた。
「曇ってるけど? それとも、バンプ?」
 ≪黄昏≫はしゃがみこんだ。
「バンプ?」
「あるんだよ。天体観測って曲が。午前二時に望遠鏡で、天体観測をするってヤツが」
「興味ない」
「だろうな。けっこう、流行ったんだけどな。
 買ってきたんだけど、いるか?」
 ≪黄昏≫はコンビニの袋を示す。白い半透明のビニール袋の中から、ビールと缶ジュースが出てくる。私は上体を起こす。パラパラと軽い音がして、髪や背から砂利が落ちる。落ちきらなかったものは、軽く手ではたく。また、パラパラと音がする。
「痛くないのかよ」
 ≪黄昏≫から、私は缶ジュースを受け取る。≪黄昏≫の好きな炭酸飲料の会社のオレンジジュースだった。プルタブを上げて、口に含むと、安っぽい味がした。混ぜ物でかさまししたオレンジジュースは、よく冷えていた。胃の中が一気に冷え込み、私は改めて胃を意識する。
「≪shi≫」
 ≪黄昏≫が私の持つ名前の一つを呼んだ。≪黄昏≫は、私の戸籍上の名前も知っていたが、≪shi≫と呼ぶことが日常だった。さ行いの段のこの音は、女性らしい響きを持つせいか、私が≪黄昏≫と呼ぶよりも、世間の印象は格段上のようだ。街中で誰も振り返ったりはしない。
「何?」
「いや、だからよ。何だってこんなところで、転がってたんだ?」
 ≪黄昏≫はお気に入りの銘柄の缶ビールを開ける。彼は若いせいか、自殺願望が多分にあるのだった。身体に悪いことをやらずにはいられない。そんな性分をしていた。勿論、彼は成人男性なのだから、社会のルールを逸脱するような酔い方をしなければ、自己責任の範疇である。
「天体観測」
「それ、もう聞いたから」
「空を見上げることを他にどう呼べばいい?」
「天体観測って、晴れた日にやるもんじゃねぇの?」
 こんなとき私は≪黄昏≫が、常識的だと強く感じる。彼は、年に見合わず普遍的なことを好む。
「私もそう思う」
「だったら、何だって」
「無性に空を見上げたくなったから、それが理由」
 口にしてみると、何とも説得力に欠ける理由のような気がした。夜中に駐車場に行くには不十分な理由だ。もしこの駐車場に事件が落ちていたら、警察に真っ先に疑われるのは私になってしまう。
「意味不明」
 ≪黄昏≫は言った。
 自分でも理解し難い状況だ。他人があっさり理解してしまったら、私という考える葦の意義が薄れていくだろう。≪黄昏≫の言葉に、私は驚きも落胆も感じなかった。
「寒くねぇ?」
「一般的な口説き文句と記憶している」
「いや、俺が寒い」
 ≪黄昏≫は薄手のジャケットの前をかき合わせる。昼間であれば、額に汗するであろう格好だが、この五月闇だ。寒いだろう。
「最初から、そう言えばいいのに」
「いや、……もういいや。
 メール見て、驚いた」
 ≪黄昏≫は話題を変える。
 私はポケットから携帯電話を取り出し、直前に送ったメールを見る。いつもと変わらない文面だ。一般的に、非常識な時間帯かもしれないが、私と≪黄昏≫の間ではまだ常識的な時間だった。
「アドレスが違ったから」
 あやうく削除するところだった、と≪黄昏≫はつけたした。
「今日の昼間、変えた」
 迷惑メールの多さに辟易して、アドレスを変えたのだ。現在のアドレスは、無意味に見える英数字がズラズラと並んでいる。
「連絡よこせよ」
「忘れてた」
 私は携帯電話をしまう。
「BCCで送れば、すぐだろ」
「一括は無味乾燥な気がする。事務的だ」
「良いんだよ。メアド変更の連絡は、事務的で」
 ≪黄昏≫は飲み終わった缶ビールをビニール袋に入れる。
「そう言えば、どうして≪黄昏≫はここに来たんだ?」
 しかも、缶ジュースまで買って、ここまで来た。徒歩で移動できる範囲に、コンビニと駐車場と≪黄昏≫の家はあったが、夜中に出歩くには面倒になる距離だった。
「ネットに上がってこなかっただろ? だから、外にいるんだろうなって思ったところに、ケータイにメールだ。ついでついで」
「なんのついでだ?」
「腹減ったから、飯でも作ってもらおうってさ。コンビニも飽きたし、外食するほど金ないし」
 なるほど、迎えにきたのか。彼らしい理由だった。
「≪黄昏≫が作る料理とほぼ同じだけど?」
 私の料理の先生は≪黄昏≫の実母だ。そのせいか、私と≪黄昏≫の作る料理の味付けは兄妹のように似ている。
「俺じゃない、誰かの手料理が食べたいんだよ」
 もっともなことを≪黄昏≫は言う。
「思うに。≪黄昏≫のカノジョは?」
 私は尋ねた。夜中に空腹を感じて、恋人に料理を頼むのは、ごく自然なことのように思えた。食を共にすることにより、絆は深まることが多い。
「他の女じゃ、お袋と同じ味じゃないし」
「愛があれば乗り越えられる。と聞く」
「無理」
 ≪黄昏≫は即答した。今の恋人は、よほどの味音痴なのだろう。
「起きたら、どっかに連れて行ってやるからさ」
「泊っていくのか?」
 私は缶ジュースを飲みきると、立ち上がる。こうして缶ジュースもおごってもらったのだ。何かしらの恩返しをしなければいけないだろう。
「まさか。飯食ったら、一回帰る」
 ≪黄昏≫も立ち上がり、手を差し出す。私は空き缶をその手に乗せる。
「どうせ。どこも出かけないつもりなんだろ? ゴールデンウィーク」
 合図したわけではないがそろって歩き出す。電灯の作る薄い影を踏みながら、砂利を歩いていく。ジャリッと不ぞろいな音が続く。
「人が多いから」
「都心出れば、逆に少ないさ。どっか行きたいところ、ある?」
 ≪黄昏≫は二つの空き缶の入ったビニール袋を揺らす。中で、缶が打ち合いくぐもった軽い音がする。
「プラネタリウム」
「よし、決定だな。ホント≪shi≫は、星が好きだな」
 ≪黄昏≫は笑う。何故だか、嬉しそうに笑う。ああ、これから食事ができるから、嬉しいのだろう。空腹に勝る調味料はなしと言う。≪黄昏≫の胃は、空腹と期待が入り混じったもので満たされているのだろう。

 その日の予報も『曇り』だったが、私は星を見た。
※作中の「バンプ」は「BUMP OF CHICKEN」の略
言及されているのは、3rd SINGLE「天体観測」
歌詞はうたまっぷさんで、どうぞ

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