タソガレ(続・天体観測)


 その日の予報は『曇り』だった。
 『曇り』の日は、あまり好きじゃない。
 嫌いでもない。
 グレー。
 その雲の色と同じ。
 どっちかと言うと、好きじゃない。
 ありきたりな言葉で装飾すると『つまらなくて、退屈な』グレーだ。
 ゴールデン・ウィークの出だしのこの日。
 不絶好な天気で、始まった。
 と言っても、起きたら夕方だったのだが……。


 目覚めは、一昔前になりつつある流行歌だ。
 CDをかけっぱなしで寝るため、眼をつぶって、開けても、同じような曲が流れている。
 寝るのに適しているかというと、微妙な。
 起きるのに適しているかというと、それまた微妙な。
 そんなアルバムが、静かに流れている。
 一日中、流れている曲は、日常すぎて、良いも悪いもなくなってきている。
 《黄昏》は携帯電話のディスプレイで、時間を確認する。
 18時14分。
 安っぽい陽に焼けたカーテン越しの光は、弱々しい。
「黄昏なんて上等なもんでもないな」
 彼は、白いレースのカーテンを開ける。
 アルミサッシの上を、ガラス戸がガタつきながら滑る。
 湿度を含んだ風がぬらりと身体をなでていく。
「梅雨みてぇ」
 《黄昏》はうめいた。
 青年はガラス戸を閉め、ノート型のパソコンの電源を入れる。
 起動するまでの微妙な時間に、小型冷蔵庫を物色する。
 缶ビールに手を伸ばしかけ、隣の紙パックの抹茶味の豆乳を取る。
 左手でストローを指すと、右手はマウスに向かう。
 メールボックスを開けながら、《黄昏》は豆乳を胃に流し込む。
 いくつかのメルマガを斜め読みして、迷惑メールを破棄する。
 その際に、サクラだと思われる女のプロフィールを習い性で読む。
 面白かったものは、オンラインの知人にそのまま転送する。
 迷惑メール専用のブログを持っている知人がいるのだ。
 彼は、自分やその周囲に集まってくる迷惑メールに面白おかしくレビューをつける。
 そのブログに訪れるのが《黄昏》の日課になりつつあった。
 手癖で『お気に入り』に入っているサイトを片っ端から回る。
 上から順にクリックする場合もあるし、その逆のときもある。
 アクセス解析が目立つサイトにはできるだけ訪れないようにしているが、気がつくと一日に4、5回は訪れている。
 《黄昏》は、空になった紙パックからストローを抜く。
 紙パックの側面に張りついたビニールもビリビリとはがし、二つのゴミ箱に分けて捨てる。
 ゴミ箱の胴体に貼りついている紙には、右肩上がりの細い文字で『燃えるゴミ』と『プラスチック』とそれぞれに書いてある。
 紙の端には、ヒヨコと金魚が描かれていた。
 《黄昏》は右端に表示され続けている緑のアイコンをクリックする。
 メッセンジャーはすぐさま開く。
 一覧が出て、知り合いの現状が表示される。
 《shi》はオフラインだった。
「寝てんのか?」
 《黄昏》は時間を確認し、その考えをすぐさま打ち消す。
 雨が続いているならまだしも《shi》は真面目だ。
 空はまだ『曇り』
 買い物に行ったか、外に食べに行ったか、テレビゲームでもしてるか、本でも読んでるか。
 その辺りだ。
「まあ、いいか」
 《黄昏》はオンラインの知人を適当に見繕うと、チャットを開いた。
 時間のつぶし方など、無限にある。
 いつものように、《黄昏》は実のない会話を始めた。

   ◇◆◇◆◇

 時間を区切るように、携帯電話が鳴った。
 『BUMP OF CHICKEN』の天体観測は、無分類。
 友だちでも、家族でもない、相手からのメールの着信を知らせる。
 知り合いですら、鳴らさない携帯電話だ。
 これだけパソコンを繋げっぱなしだと、用件は捨てメになるようなフリーメール中心になる。
 携帯電話を使うのは、閉じられた空間だけだ。
 そこに飛び込んできたEメールを《黄昏》は開く。
 見覚えのないアドレス。
 でも、用件には見覚えのあるクセがあった。

 『ゴールデンウィークは、何故ゴールデンウィークなのだろう?』

「意味不明」
 《黄昏》は呟いた。
 こんな変わったメールを遣す人間の心当たりは、一人しかなかった。
 彼女という名を持つ少女《shi》だ。
 どうやら外にいるらしい。
 家ならば、わざわざ携帯電話を使うはずがない。
 《shi》はキーボード以上に、テンキーが嫌いなのだ。

――どこにいる?
 《黄昏》はメールを返す。
 返事はしばらくすると、返ってきた。
 どうやら、ご機嫌らしい。
 『外』
 わかりきったことを送ってくるのが、《shi》だった。
――場所は?
 いらだちながら、彼はメールを送る。
 メールには、感情が入り込まないので、助かる。
 ボイスチャットだったら、怒鳴っているところだ。
 『空の下』
――住所は?
 『Kの駐車場』
 《shi》の答えた場所は、それほど遠い場所ではなかった。
――まだ、いるのか?
 『雨が降らなければ』

 《黄昏》は右端に表示されている時間を見る。
 そんなに遅い時間でもない。
 『悪いな、用事ができた』
 チャット中の相手に送ると、パソコンの電源を落としてしまう。
 右手でディスプレイを閉じながら、左手は携帯電話をつかむ。
 
   ◇◆◇◆◇

 途中のコンビニで、缶ビールと《shi》が好きなオレンジジュースを買う。
 健康志向が強い《shi》は、炭酸類を好まなかった。
 骨が溶けるという都市伝説をかたくなに信じているのだ。
 《黄昏》が閑静な住宅街の駐車場にたどりつくと、まるで葬式ごっこのように《shi》が寝転がっていた。
 黒い瞳はぼんやりと宙を見つめいていた。
 胸が上下していなければ、死体と勘違いしていただろう。
「何やってんだ?」
 《黄昏》はしゃがみこみ、尋ねた。
「天体観測」
 《shi》は淡々と答える。
「曇ってるけど? それとも、バンプ?」
 青年は空を見上げた。
 やっぱり空は『つまらなくて、退屈な』グレーだった。
「バンプ?」
 鸚鵡返しに《shi》が訊く。
「あるんだよ。天体観測って曲が。午前二時に望遠鏡で、天体観測をするってヤツが」
 眼には見えないものを探すために、望遠鏡を覗き込む。
 《黄昏》にとっては、青春らしき象徴の曲だった。
「興味ない」
「だろうな。けっこう、流行ったんだけどな。
 買ってきたんだけど、いるか?」
 ビニール袋から缶ビールと缶ジュースを出す。
 《shi》は起き上がった。
 相変わらず、現金な体質らしい。
 砂利が小さな体から、パラパラと落ちる。
 心を覆う鎧がパラパラと崩れていくように、小さな石が落ちていく。
 詩になるほど綺麗ではなく、よく怪我しないなと感心するような光景だった。
「痛くないのかよ」
 《黄昏》の質問に、《shi》は答えない。
 答えたくないことには、黙り込みを決める。
 出会った頃からの《shi》の悪い癖だった。
 痛くないはずがない、と思う。
 が、痛いと感じることを拒否しているのかもしれない。
「《shi》」
「何?」
 黒い瞳がようやく《黄昏》を見た。
 動物園の象のように大きく黒い目が、彼を見つめる。
「いや、だからよ。何だってこんなところで、転がってたんだ?」
 気まずい思いを打ち消すように、《黄昏》は缶ビールのプルタブを上げる。
「天体観測」
 その言い回しが気に入ったのか、《shi》はくりかえす。
 《shi》は、歳よりも子どもっぽいところがある。
 覚えたての言葉を何度もくりかえしたり、一つにこだわったりする。
「それ、もう聞いたから」
「空を見上げることを他にどう呼べばいい?」
「天体観測って、晴れた日にやるもんじゃねぇの?」
 《黄昏》は妥当なこと言った。
 とりあえず、死体のように駐車場に転がらせておくわけにはいかない。
 軽く警察のご厄介になってしまう。
「私もそう思う」
 《shi》は言った。
「だったら、何だって」
「無性に空を見上げたくなったから、それが理由」
「意味不明」
 《黄昏》はためいきをついた。
 《shi》の思考パターンは、常人とは違う。
 フツーに当てはまらないのだ。
 二人の間に、冷たい夜風が吹き渡る。
「寒くねぇ?」
 自分よりも、目の前の少女のほうが薄着なのだ。
 日中ならば寒くもないだろうが、むきだしの肩が凍えているように思えた。
「一般的な口説き文句と記憶している」
「いや、俺が寒い」
 五感が鈍いのは、こんなとき便利なのかもしれない。
 己の心を守るためか、《shi》は外からの反応に鈍かった。
「最初から、そう言えばいいのに」
 《shi》は言った。
「いや、……もういいや。
 メール見て、驚いた。
 アドレスが違ったから、あやうく削除するところだった」
 恩着せがましく《黄昏》は言ってやる。
 《shi》は携帯電話をポケットから取り出して、開く。
 淡い光が白っぽい顔を照らして、B級ホラーのようだった。
「今日の昼間、変えた」
「連絡よこせよ」
「忘れてた」
 どうでもいいように、彼女は言う。
 用済みの携帯電話はパチンと閉じられる。
 新機種では珍しく音を立てる。
 いや、音が立つから《shi》の携帯電話だった。
「BCCで送れば、すぐだろ」
「一括は無味乾燥な気がする。事務的だ」
 黒い瞳は宙をさまよう。
 まるで見えないものを探すように。
「良いんだよ。メアド変更の連絡は、事務的で」
 忘れられるよりも、何倍もマシだった。
 けれど《黄昏》は言わなかった。
 体をめぐるほどよいアルコールのせいかもしれない。
「そう言えば、どうして《黄昏》はここに来たんだ?」
 持て余し気味に《shi》は缶ジュースを飲む。
 温かいほうが良かったかもな、と《黄昏》は思った。
「ネットに上がってこなかっただろ? だから、外にいるんだろうなって思ったところに、ケータイにメールだ。ついでついで」
「なんのついでだ?」
「腹減ったから、飯でも作ってもらおうってさ。コンビニも飽きたし、外食するほど金ないし」
 彼は、もっともらしいことを言った。
「《黄昏》が作る料理とほぼ同じだけど?」
「俺じゃない、誰かの手料理が食べたいんだよ」
 一人暮らしだと、たまに駆られる欲求だ。
 家庭的な味が食べたい。
 あったかいものが食べたい、と。
「思うに。《黄昏》のカノジョは?」
 めんどくさいことに、《shi》は遠慮する。
 当然なことかもしれないが、《shi》は恋人同士という間柄を神聖視する。
 古風でいいのかもしれないし、恋愛にルーズよりはマシだろう。
 問題は、仮想上でもそうだということだ。
「他の女じゃ、お袋と同じ味じゃないし」
 顔を見たことないヤツにどうやって、飯つくらせりゃいいんだよ。
 ためいき混じりに《黄昏》は言った。
「愛があれば乗り越えられる。と聞く」
「無理」
 《黄昏》は即答した。
 ネット恋愛も、同性愛も否定する気はないが、《黄昏》とそのカノジョだといわれる人間の間には『愛』はない。
「起きたら、どっかに連れて行ってやるからさ」
「泊っていくのか?」
 《shi》は立ち上がり、尋ねる。
 《黄昏》も立ち上がった。
 ずいぶんと長いことこの場所で、話していたような気がする。
 体温が外気になじんでいる感触がした。
「まさか。飯食ったら、一回帰る」
 《黄昏》は手を差し出した。
 飲み終わった缶ジュースが手渡される。
 それをコンビニのビニール袋の中に放りこむ。
「どうせ。どこも出かけないつもりなんだろ? ゴールデンウィーク」
「人が多いから」
 予想通りの答えだった。
「都心出れば、逆に少ないさ。どっか行きたいところ、ある?」
「プラネタリウム」
「よし、決定だな。ホント《shi》は、星が好きだな」
 《黄昏》は苦笑に近い、笑みをこぼした。
 呆れるような、羨ましいような執着だった。

   ◇◆◇◆◇

「それで、ゴールデンウィークについて考えていた」
 食べ終わった皿を脇にやって、《shi》は言う。
 常に持ち歩いているメモ帳にノック式のボールペンで、『黄金週間』と書いた。
 右肩上がりの細い文字は、申し訳なさそうに紙の中央にいる。
「ゴールデンウィークとルビを振る必要はない、と思う」
 そう言いながら、真剣な表情で『黄金週間』の隣に『ゴールデンウィーク』と書く。
 それから『黄金週間』の上に二重線を引く。
 いらない、という意味だ。
「貸して」
 《黄昏》が言うと《shi》は立ち上がる。
 すぐ側の本棚兼物置のカラーボックスから、ルーズリーフの束とペン入れを持ってくる。
「そんなにいらないんだけど」
 《黄昏》の言葉は無視され、それらが青年の前に並べられる。
 仕方なく《黄昏》はルーズリーフにメモ帳と同じ言葉を書き連ねる。
 久しぶりに手にしたシャーペンの感覚は、奇妙だった。
 文字を書くことを手が拒否するような、違和感を覚えた。
「大昔は、飛び石連休って言っていたし、大型連休っていまだに使う。
 あとはG.W.と略す場合もある。
 全部一緒で、全部いらないわけじゃない」
 《黄昏》はルーズリーフに、ゴールデンウィーク関連の言葉を書きつける。
「どれも同じだ。
 でも、必要だ。使い分けをしているだけだ」
 《黄昏》は残っている紙面に、戸籍上の名前と『黄昏』を並べて書く。
「どっちも俺だ」
「私は、ただの《shi》でいい」
 《shi》は言った。
「もらいもんだろ? 大切にしろよ。
 HNはいくらでも変えられるし、別人になりすますこともできるけど、さ」
 シャーペンで戸籍上の名前を叩く。
「こっちは、一つっきりだ
 いらなくなることはない」
 《黄昏》は《shi》の書いた『黄金週間』の文字を丸で囲む。
 ついでにそれをヒマワリのような花丸にする。
「――」
 《黄昏》は《shi》の名前を呼んだ。
 懐かしい響きがするぐらいには、呼んでなかった、と気がつく。
 返事は返ってこなかった。
 期待はあまりしていなかったので、落胆はしなかった。
 《shi》はメモ帳を一枚はがし、ルーズリーフと重ねる。
 そして、クリアケースの中に、一緒に入れられた。
 どうやら覚えておくつもりらしい。
 《黄昏》は微笑んだ。
「まあ、いいや。
 俺は帰るわ」
 財布から千円札を一枚取り出し、テーブルの上に置く。
 食事の材料費と手間賃だ。
 この手のことをなあなあにしておくと、あとでトラブルになる。
「起きたら、連絡しろよ」
 《黄昏》は言った。
「どれで?」
「好きにしろよ。
 パソコン、つけっぱなしにしておいてやるから。
 楽なほうでいい」
「そうする」
 《shi》はうなずいた。

   ◇◆◇◆◇

 外へ出ると、朝だった。
 黎明というんだろうか、そんな明るさに包まれていた。
 今日の天気も良くないらしい。
 空はグレーで覆われていた。
「天体観測……か」
 届かない手紙はない。
 どこにいても相手に届く世界になった。
 宛名さえわかっていれば、光の速さで伝えることができるのだ。
 《黄昏》は携帯電話を握る。
 彼女が目覚めたらくれるはずのメールを心待ちにしながら。
※1 言及されているのは、3rd SINGLE「天体観測」
歌詞はうたまっぷさんで、どうぞ

※2 《shi》はエスペラント語で「彼女」です
より正確な表記では《s^i》となります

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