始まり

 習郎(習家の若様)は、チョウリョウ切っての花々公子(放蕩息子)。
 キラリと輝くその瞳に、若い娘はみな夢中。
 誰も憎めない色男。


 その日、羽 朝烏はいつものように針仕事をしていた。
 華やかなざわめきに、そっと窓から外を覗く。
 眩い日差しの中、大通りを習朗が通るのが見えた。
 明るい色の衣をまとう馬上の人は、にこやかに村娘から守りを受け取っていた。
 必勝を祈願する守り布が、その手にはたくさん握られていた。
 誰もが憧れる若者だった。
 チョウアはためいきをついた。
 そして、静かに椅子に座りなおす。
 夏の太陽のように、明るく眩しい人に近づく方法など見つからない。
 チョウアはただの村娘なのだ。
 美しくもなく、優れた才もない。
 月の光すら弾くと言うエイネンの姫君や、百合の花すら恥じ入る翁家の姫君なら、かの君の隣に相応しい。
 自分のような者が、憧れるのもおこがましい。
 何も優れたもののないチョウアは、人並み以上に真面目に家のことを収める能力を身につけなければならない。
 未来に仕える家公のために、その腕を磨かなければならない。
 チョウアは口を引き締めた。
 そうしなければ、何度もためいきをついてしまいそうだった。


 習家の当主、倉庚は息子に相応しい嫁を探していた。
 勝手気ままな放蕩息子の手綱を引き締めてくれるようなしっかりした娘。
 それでいて、あの口煩い息子が押し黙るような阿嬌(美人)だ。
 家柄などはこの世知がない世の中だ、無視しても良かった。
 が、しかし、そうそうお眼鏡に適う娘はいない。
 近頃の娘は軽薄極まりない。
 水に流されるような娘では、息子と一緒にどこかに消えてしまう。
 岩のように頑固な年頃の娘はいないかと、ソウコウは今日も訪ねまわっていた。
「はあ、我が家にも娘はおりますが……」
 困ったように、男は言った。
「大旦那様とは……」
 自分の土地も持たない小作人は恐縮したように頭を下げる。
「会わせてもらえまいか?」
 ソウコウは尋ねた。
 探し回って、とうとう村外れだ。
 この調子だと、この里の娘には嫁候補はいないだろう。
「はあ。
 うちの娘は、不器量ですし。
 ほんと、駄目なんですよ」
 男はぺこぺこと頭を下げる。
「かまわない」
 ソウコウは断言した。
「じゃあ、ちょっくら、呼んでまいります」
 擦り切れた野良着の男は、家の奥に行った。
 ソウコウは半ば、諦めたように待つ。
 街に出なければ息子の嫁は見つからないのだろうか。
 できれば、地元で探したかったのだが、仕方がない。
 少しばかり毛色の違う娘でも我慢するしかない。
 ソウコウがためいきを三回ついた後。
 男は一人で戻ってきた。
「すいません、大旦那様。
 うちの娘は、会えないって言うんですよ。
 大旦那様の目が汚れるからって」
 すまなそうに男は言った。
 初めての展開にソウコウは驚いた。
 ソウコウが家を訪ねると、どこの家も娘を呼ばずとも連れてきた。
 娘たちは精一杯に着飾り、媚を売った。
 嫁探しをしていることをみな知っているのだ。
「この家が、我が里の最後の家だ。
 どの家の娘も見てきた。
 連れてまいれ」
 ソウコウは言った。
「どうしても、嫌だと。
 消えてしまいたいと言うんです。
 恥ずかしいって」
 男は困ったように頬をかく。
「娘は奥だな」
 ソウコウは男を退けるようにして、家の奥に進む。
 粗末な家にお似合いな奥に、娘の姿はなかった。
 ソウコウは室内を見渡す。
 最低限の家具しかない室内に、いくつかの布が乱れていた。
 先ほどまで針仕事していたのだろうか。
 ソウコウは布の一枚を取り上げた。
 仕立て上げる前の麻布には、丁寧な縫い目が続いていた。
 ふと、粗末な寝台に目をやると、人影が見えた。
「この家の娘だな」
 ソウコウは大股で近づくと、縮こまっていた人間を無理やり立たせた。
 鼈甲色の髪がサラリと流れて、陽の中で娘の容貌が明らかになる。
 埃にまみれていたが、目鼻立ちは悪くない。
 猛禽に狙われた兎のように怯える木蘭色の瞳が印象的だった。
 最近の娘は毅然としすぎていて、このように震える者は少ない。
 娘は懇願するように、か弱く首を横に振る。
 これなら、あの息子も気に入るかもしれない。
 圧倒的なまでの『脆弱』さ。
 ある程度自負のある男なら、守りたくなるような儚さだった。
「決めた。
 そなたにしよう」
 ソウコウはにやりと笑った。
 娘は小さく悲鳴を上げて、己の意識を手離してしまった。


 何もわからないまま、チョウアは祝言を挙げた。
 激流に流され続け、訳のわからないままこの夜を迎えたのだった。
 今年で十五を数えた。
 嫁ぐにしては早い年だが、早すぎることもなかった。
 これまでに運命を感じる相手に出会えなかった事実が、今日を呼び込んだ。
 引っ込み思案のチョウアは、同性であっても同世代の輪に加われないでいた。
 母を早く亡くし、女兄弟はいなかった。
 本当に何も知らずに、ここまできたのだ。
 結婚の意味すら知らずに、ここにたどりついたのだ。
「不束者でございますが、末永くよろしくお願いします」
 チョウアは覚えたての言葉を述べた。
 床に額づき、夫となった人物に向けた。
 先ほど、侍女にそう言うように教えられたのだ。
 チョウアは何も知らなかったから、教えられたとおりにした。
 この後どうすれば良いのか、誰も教えてくれなかった。
 チョウアはビクビクしながら、時が流れる音を聞いた。
「こんなところにいたら、体が冷えてしまう」
 優しげな言葉が、良い香りと共に近づいた。
 そっと、肩に手が置かれた。
 チョウアはそろそろと顔を上げた。
「寒いだろう。
 春とは言え、名ばかりだ」
 誰もが憧れる習朗が、そこにいた。
 体が良い香りに包まれたと思った途端、宙に浮いた。
 抱き上げられたのだ。
 静かに寝台に運ばれた。
 うっとりとするような絹の布団に押し込まれた。
 そこは暖かくて、心地良かった。
 ごく自然に夫はチョウアの傍らに添う。
 思ったよりも、怖ろしい人ではない。
 それどころかとても優しい。
 幼いチョウアは安堵して、微かに笑った。
「ようやく、笑ったな。
 女は笑っているのが良い。
 幸せそうに笑っている顔を見るのが、俺は一番好きなんだ」
 ささやくような言葉だった。
 それから、優しくチョウアの髪をなでる。
 そんなことは、父にもしてもらったことがなかったから、チョウアは何だかくすぐったかった。
 嬉しかったのだ。
 チョウアは、クスクスと無邪気に笑った。
 習朗の甘やかな栗色の瞳が和む。
 それが本当に優しかったから、チョウアはドキリとした。
「俺の前では、ずっと笑っていろ」
「はい」
 チョウアはうなずいた。



 射るような明るい陽の光にロシは目を覚ました。
 頭が割れるように痛い。
 完璧な二日酔いだった。
 栗色の瞳に見慣れぬ天井が映る。
 ここは、どこだ?
 しばし思考を巡らせる。
 傍らに温もりを感じたが、さほど違和感は覚えなかった。
 チョウリョウの民にあるまじきことだったが、ご婦人と床を共にすることに慣れていたためだ。
 また深酔いして、適当な女を引っ掛けたのだろうか?
 それにしては、立派な家の造りだった。
 ロシは傍らに目を遣った。
 すやすやと寝息を立てるまだ幼い少女。
 ロシはギクッとした。
 その娘のあまりの幼さに驚いたのだ。
 きちんと合意の上だったのか、極めて怪しい事態だった。
 まさか無理やりと言うことはない……だろうが、言い切れなかった。
 ロシは慌てて、上体を起こした。
 頭痛はおかげで増したが、気にしている場合ではない。
 成人は一応しているのだろうか?
 衣服に乱れはなったが、そんなものは保証にならなかった。
 よくよく見ると、無垢な印象を受ける娘で、明らかに自分好みだった。
 スッと娘の瞳が開く。
 焦点の定まらない瞳の色は、美しい木蘭色。
 白い肌に映えて、その混じりけのない純粋さが綺麗だった。
 少女の動きに合わせて、鼈甲色の髪がうねりを描く。
 細い髪がサラサラと流れて、美が宿っていた。
 ぼんやりとロシを見上げる。
 それから、娘は微笑んだ。
 ふれたら消えてしまいそうなほど、儚い風情だった。
「おはようございます、夫君(あなた)」
 娘は礼儀正しく、礼をした。
 ロシの頭に、断片的な記憶が過ぎる。
 昨日、何があったのか。
 空白が多かったが、知識でそれを埋めることは充分可能だった。
 父に騙されて、結婚したのだ。
 目の前の娘は己の妻。
 運命を感じている余裕は、どこにもなかった。
 あったのは、怒り。
 ロシは寝台から降りると、父の寝所に怒鳴り込みに行った。




 彼が運命を感じるのは、まだ先のこと。
 二人が名を交わすのは、ずっと先のこと。
 それでも、これは運命だった。
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